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倫理的人生

映画『ファニーゲーム』感想と雑記

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ファニーゲーム』(ミヒャエル・ハネケ監督、1997年)

すごい。「無慈悲で純粋な暴力」を描いた映画かと思いきや、終盤にはこの映画そのものが「暴力」へと転身する。ハネケにとっての標的は観客。
本当に最悪な気分。
こんなに途中で観るのを止めたくなる映画を他に知らない……。

以下ネタバレ。

チェーホフの銃」とナイフの話

 作劇技法に「チェーホフの銃」というのがある。

「物語の中に拳銃が出てきたら、それは発射されなくてはいけない」これはすなわち物語にとって必要のない要素を描くな、という理論でもある。この理論自体の是非については検討の余地があるが、少なくともハネケはこれを反転させて利用している。

 冒頭、まだ凄惨な事件が起きる前に、ボートにナイフが転がって置き去りにされるカットが描かれる。それはこの物語の先行きを暗示させる不穏な描写の一つとしてあるわけだが、ラストに妻がボートに連れ込まれる場面でそのナイフは再び登場するのである。

 妻は男二人に手足を縛られて身動きが取れない状態だ。息子と夫を殺害した男二人は談笑している。二人が見ていない隙に、妻はそのナイフに気付いて腕のロープを切ろうとする……。

 ナイフはこの映画のなかで唯一と言っていい希望の象徴でもあったのだ。観客は期待する。妻がひょっとしたらここから抜け出せるのではないかと。しかし、その期待はしれっと裏切られる。男がその様子に気付くと、笑いながら、ナイフと彼女をあっさりと湖に放り捨ててしまう……。

 結果的に、この物語において「ナイフ」は何も切断しえないままその役目を終えることになる。しかし、それはあくまで表面的にはそうであったというだけで、しっかりと役割は果たしているのである。

 第一に、物語の先行きの不穏さを。

 第二に、ナイフが投棄されることによる《希望》の無為を。

 それらを暗示することで、ナイフは確実に妻を、そして観客の心を揺さぶり、切り刻んでいる。

 

人間の距離感、パーソナルスペースの侵入

 家族を惨殺する男二人の、他人に対する詰め寄り方について。

 あえて書くべきことは他にもあるような気がするが、個人的に感じたことを書いてみる。

 この映画では、男たちがまず始めに「卵を4個譲ってくれ」とせがみに家へとやってくるところで、惨劇に出会うことになる。

 彼らの立ち入り方はどこか異常だ。いきなりずかずかと家の中へと踏み入り、キッチンにまで入り、卵を受け取るとすぐに落としてしまう。「1パックありましたよね?もう4個ください」と言葉だけは丁寧だが不躾だ。このタイミングでもまだ妻は「気にしないで」と笑顔を作り、「今度はちゃんと包んだほうがいいかしら」「どちらでも」「どちらでも?」「そのほうがいいと思うな」と不自然だ。そのあと、男は家の電話を流し台に落とし、また卵を外で落として再三せがみに来るという図々しさを発揮する。

 おかしいのは台詞だけではない。

 彼らは軽々と個人の領域を侵し続ける。家に入り、キッチンに入り、冷蔵庫を覗き、懇願する言葉は妙に近い距離で吐かれる。

 画面の中で、初対面の人物同士が極端に近い距離で会話するだけでここまで居心地というのは悪くなるものなのだなと思う。

 不躾に距離感を犯してゆく人物を、ハネケはとても神経質に描ききっている。

 

 最近だと行定勲監督の『リバーズ・エッジ』はこの距離感というものに無頓着な映画で悲しくなったことを思いだした。友達という距離、恋人という距離、そのどちらでもない距離。それぞれまったく異なる《距離》に対する配慮がもう少し欲しかった。

 フレームの大きさについて考えるならば人と人との距離というものについても当然考えるべきだと思う。

 

ファニーゲーム』の場合、そしてその神経質な不躾さでもって観客の心中へもずかずかと踏み込み荒らす。本当に最悪の映画。人には薦められない。

 

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