ふれなばおちん
幼な頃には高いところを好んで、当時住んでいた集合住宅の最上階が主な遊び場でした。日射しに弱く学校を休みがちだった私にとって、それはささやかな冒険でしたし、こっそり家を抜け出すスリルもスパイスだったと思います。
歳のそう変わらぬ子供たちの跳ねるような声がこだますると（集合住宅はドミノ状に並んでいるので、建物どうしの間で反響するのです）、たいてい丁度おやつどきでした。私は小さなポシェットに詰め込んだ菓子類からグミやら鈴カステラやらを取り出しては囓り、遠くの駐車場で几帳面に並べられたミニチュアの自動車を眺めて過ごすのでした。
建物は十階建てで、辺りでは頭一つ高かったので普段見えない家の屋根やビルの屋上などを見渡すことができます。見下ろすと雨樋にバドミントンの羽のようなものや野球やサッカーのボールの類、珍しいものだと運動靴やらを見て取ることができました。真下には広場と公園があったので、遊んでいるうち失くしたものが忘れられたままそこにあるようでした。そんな景色がどうしてか私は好きでした。
その日も広場では子供たちが頭数の足りない野球で遊び賑やかでした。ひょっとすると彼らは学校のクラスメイトだったかもしれませんが、顔や名前が今ひとつ記憶にないのはきっとお互い様だろうと思え、結局私はいつものように彼らの遊びを見守る役でした。誰もこんなところにいる私を見つけてはくれず、もしも遊びに誘われたらどうしようかと考えてみても、やはりルールを知らず身体も思うように動かぬようでは邪魔だというのが結論でした。
野球をしているなかに一人特別上手な子がおり、彼が打席で金属バットを振るうといつも硬質な音が建物に響いて、頭の中がすこんと軽くなるようでした。彼は敵味方問わずいいプレーをすると必ず拍手で相手を讃え、なんとなくそれだけで私は名も知らぬ彼のことが好きでした。
持ち出した菓子も目減りして、投げる打つが何周かしたところで背後に重いドアが開く音がしました。上目遣いに見るとそれは大人の男の人でしたが、目深にキャップをかぶり、季節でもないのにマスクをしていて変でした。その人の手にもなぜかバットがありました。
「……いませ」
喉が細ってすみませんがうまく言えず、廊下に広げた菓子の包装を慌てて片付けると、その男の人は「煩い煩い」と呟くだけで過ぎていきました。その背中がエレベーターホールに消えるのを確かめて、私はこの部屋の前でいるのはやめたほうがいいかなと考えました。
部屋は外からでも特徴的で、ドアポストからはチラシのようなものがぎゅうぎゅうに詰まって溢れていました。手にとって見るとそれは何か通信教育のパンフや封筒のようで、あんな大人でも勉強するのかと少し感心し、翻って自分もまだまだこの先学ぶべきことが夏休みの宿題のように、もしくはそれ以上に積みあげられていているのか、だとすれば私のように学校にも行かず今学ぶべきものを積み残し先延ばしにし続けていると大人になったとき、いったいどんな苦しみが待っているのだろうかと考え、将来のことは何より頭痛の種でした。
だからこそ後悔よりも行動なのだと、何かが私に囁くようでした。おそらくはちょっとした悪戯心だったのだと思います。私は溢れていたドアポストからチラシを抜き取り、膝の上で折り折り、紙飛行機を拵えました。試しに作った羽の大きな一機を思い切って投げると、それはすぐに風に煽られ舞い上がり、視野の外へと消えてしまいました。失敗でしたが、胸のどきどきがしばらくおさまらず、誰かに見てもらいたいという期待と見つかって怒られる恐怖とがせめぎ合っていました。折り紙は得意でしたが紙の大きさが普段とは違い、また高所につき風も思いのほか強かったので、今度は小さく細めに折ってみることにしました。
ゆるく振りかぶり、二機目を投げます。今度は狙い通りの角度で、手応えがありました。滑るようにゆるく弧を描きながら下降してゆくそれを眺めて、私は知らず口に出していました。
「おちろ、おちろ」
言葉に導かれるように、今度こそ飛行機は広場に向かって墜ちていました。
ピッチャーが数度投げるふりをしてふざけていました。外野では一人、アイスキャンデーの棒を咥えて退屈そうに草むしりをしています。駄菓子のごみが辺りに散らばって見えました。今にも走り出せるよう前傾姿勢になった子の後ろでは、グローブをつけた子が地面に描かれたベースの四角を爪先でなぞっていました。打席には私の好きだった彼が立っていました。
「らあっ」投手がぴっとボールを投げました。すると彼は一球目から大きくバットを振りかぶり、いつもと同じなつかしさのする音で、白球が弾けました。
その瞬間のことを今でもはっきりと覚えています。ホームラン級の当たりのよさでしたが、飛んでゆく途中でボールが二つになったのです。ぱしっと音がして、片割れ一つが墜ちました。外野の一人が上手くそれをキャッチしましたが、グローブのなかで折れ曲がった紙飛行機を認めると、その子は不思議そうに辺りをきょろきょろと見渡していました。一瞬の静けさのあとでどっと笑い声が上がり、私も可笑しくて一緒になって笑いました。本当のボールはどこか遠くに消えたようでした。
ふと見ると、そのボールを打ち上げた彼だけが、空を仰ぐように私を見上げていました。本当に私のことを見ていたのか、それとも気まぐれだったのか、今となってはもう確かめる術もありません。彼はそのまま空を仰いで拍手をすると、他の皆と一緒にわははと笑っていました。こんな風に誰かと一緒に遊んだような気分は初めてで、胸がいっぱいでした。
しかし、そのとき広場にもう一人の部外者が侵入していたことに、私は気付いていました。その人も野球に混ざろうとしているのかななどとぼんやり考え、それがついさっき通り過ぎていった通信教育の男の人だと気付くまで随分かかりました。通信教育はいつの間にか彼の背後に立っていて、次の瞬間には彼の頭がバットで吹き飛ばされていました。血は出ませんでしたが首が奇妙にねじれて、ぱっと見でもう駄目そうでした。そばにいた内野の子は崩れ落ちたまま動けず、それもバットの餌食でした。そこでやっと慌てて逃げ出した外野の子は自分の脚に蹴躓いて転び、首の後ろから飛び出したのは咥えたアイスの棒でした。それから通信教育は落ちているボールをゆっくりと拾い、さらに逃げようとする子たちには千本ノックで刺しました。球を顔で受けた子が血を吹き出しながら泣くと、通信教育はまた「煩い煩い煩い」と、相手が痛みに声が出なくなるまで顔をさらに潰してゆきました。静かになった広場に、夕方五時のチャイムが防災無線のスピーカーから流れていました。
あれから大人になり、今では病院の窓から四角い空を見上げる毎日です。この頃は両親もあまり見舞いに来ないので、話し相手がとんと居なくなりました。看護師さんは必要最低限のことしか話しませんが、一言でも「お友達になりましょう」と声をかけてくれればいいのになと思います。
病室の隣のベッドには、あの頃の私と同じくらいの歳の女の子が先週越してきました。
「初めまして硯ですよろしくお願いします」と挨拶まで丁寧で、優しそうな子でした。
「こちらこそ初めまして」
ぺこっと小さなお辞儀をして、硯ちゃんはベッドに戻ろうとしました。
「ちょっと待って」引き留めてから、私は自分が何を言いたかったのか分からなくなりましたが、「それだけ？」
「えっとはい」
「……」
「あ、あの良ければ林檎もらったのでこれ、」
「ありがとうでもお構いなく。なんでも分からないことあったら聞いてね、私ここ長いから。学校の宿題のことでも構わない。難しい問題、面倒な問題、単にやりたくない問題、いろいろあるだろうけど、なんでも私に頼っていいよ。何よりも学ぶべきこと学ぶタイミングが大事なんだよ、私は失敗したからよくわかるもの。でも私もね、昔学校休みがちだったから勉強したのよ通信教育で、通ってもないけど高卒認定もあるの」
「ありがとうございます」
でも硯ちゃんは私に話しかけることはあっても頼ってはくれませんでした。本当に困れば看護師さんを呼べばよく、家族や友人の見舞いも絶えなかったので、宿題に関しても硯ちゃんは学校の友達と一緒に解いていました。今日などクラスを代表して班全員で硯ちゃんを見舞いに来ており、手渡された折り鶴も本当に千羽あるような迫力でした。
「クラス全員で折ったの早く治りますようにって」
「わあ本当」
「よかったな硯」
「よかったわね硯」
「ありがとうお父さんお母さん」
「父さんは本当に嬉しい。硯にはこんなにいいお友達がいたんだなあ。学校で勉強するのもいいけど本当に得るべきものは良き友だと心から思うよ。父さん今でも小学校からの友達と飲んだりもするし、そういう関係ってなんかいいよな」
「わかるけど自分で言わないでよ」
「駄目か」
「駄目だよ」
「そうよ駄目よ」
硯ちゃんの家族が話し込んでしまった横で、クラスメイトの面々が少し緊張の面持ちで立っていました。友人の親というものはそれほど緊張を強いるものなのか、私にはよく分かりませんでした。
彼らのうち一人が退屈そうに窓の外を眺めて「あ」と指さしました。窓際にいた私は必然その子と目が合って、ばつが悪そうに指を引っ込めるのをにっこり笑って見送ると、私もつられて窓の外を見上げました。
飛行機でした。それは雲よりやや速く、空に白い線を残しながら飛んでいます。思わず私は手を伸ばし、指先でその軌跡をなぞって「墜ちろ」と呟いていました。
思えばあの日、最上階から紙飛行機を飛ばしたとき、私が同じ台詞を口に出して言ったのは少し可笑しいことでした。念じるべき言葉は「飛べ」だったはずではなかったか、そう思うと自然と笑みがこぼれました。「うふふふ」
「でも私もう随分よくなったの、来週には退院だって先生が」
「それじゃあ今度は退院祝いの準備しないとな、何がいい？」
「そうだ硯ちゃん帰ってきたらクラスみなで歌でも歌おうか」
「鶴百羽折ったんだ、だからって訳じゃないけどさ俺と付き」
「みんなありがと、でも今の方が居心地いいかも学校ないし」
「まったく硯は本当馬鹿なんだから。ちゃんと勉強してるの」
「うふふふふふふふふ」馬鹿らしい会話に笑ってしまいます。「墜ちろ墜ちろ墜ちろ」
「何だねこの人は」
「この人いつもこうなの気にしないで」
隣のベッドを囲む輪が私にはたまらなく明るく温かく見えました。こんなにも馬鹿馬鹿しくつまらない会話さえ私は誰かと交わしたこともなく、それもまさに学ぶべきことのタイミングを逸してきた負債に思えました。
紙飛行機が墜ちれば、それをきっかけに誰かが私を見つけてくれる。そうすれば友達にだって誘ってもらえる、そう思っていました。でも結局みんな死んでしまいました。あのとき私は何を感じていたでしょうか。本当は胸の空くような思いを感じていたのではなかったでしょうか。今も私は「墜ちろ」と呪詛を繰り返していて、それはまるであの殺戮の犯人と同じではないでしょうか。
今の私ならあの人と友達になれただろうかと考えましたが、やはりそれは難しく思えました。問題の区分で言えば、これは難しい問題というよりも単にやりたくない問題の部類です。私は誰でも良いから友達が欲しかったわけではないと知り、少しだけ安心できました。
窓の外では飛行機雲が、先刻よりずっと遠く長くまで伸びていました。どれだけ呪詛を吐こうとも、飛行機なんてそう簡単に墜ちるものではないのです。むしろ吐くことでよりその事実を確かめるだけでした。そんな風に小さな可能性に賭けて独りぼっちで待つのは、もう疲れてしまいました。「ねえ硯ちゃん」
「うん」
「私折り紙得意だから、今からでも鶴折らせてもらえないかな。私と、友達になってもらえないかな」
もうずいぶん長いこと折り紙なんてしていなかったと、言ってから思い出しました。上手に折れるか不安で焦ると、思わず涙が溢れていました。
あからさまに顔を歪めるご両親とは裏腹に、しかし硯ちゃんは花のように笑うと、
「うんいいよ」
それは懐かしい打球音のように響いて、私の頭はすこんと軽くなりました。記憶のなかで首のない野球少年が、私に向かって拍手を送っています。私は遠く打球を見上げて太陽の眩しさに目を細め、あの日私が投げたもう一機の紙飛行機が、長いしっぽのような雲を携えて飛ぶのを見ました。ナイスボールと呟きながら。
