岐路は希望の兆しであれ――『リズと青い鳥』によせて(ネタバレ)
言葉が怖い。
意志を伝える手段であるはずの言葉は、うまくすれば他者とのコミュニケーションを可能にするが、実際はむしろ逆で――自分の思いが適切に伝わらないことをもどかしく感じることの方が多い。
語彙を尽くしても思いは伝わらないかもしれず、それどころか、言葉を交わせば交わすほど、他者との理解しあえなさや断絶が浮き彫りになってゆく。それが怖い。
怯えて黙り込んでしまうこともある。それでもやはり、私は誰かを心から理解したいと願うし、理解してくれる誰かの存在を祈っている。
だからこそ私は小説を書いている。物語が私にとって他者・外界と繋がるための手段であると強く思うし、迂遠、曖昧、口下手なことも、小説は許容してくれる。
こうした言葉に対する背反した思いを、おそらく山田尚子監督も抱いているのだと思う。次のコメントから溢れ出す絶望、希望、愛がないまぜになった感情は、ちょっとすごい。
「やっぱり心っていうのはすれ違うもんだな」というのが「言葉っていうのはいくら尽くしても伝わらないもんだな」とか、いやいや全然絶望感まみれの話ではないんです(笑)。だからこそ希望が持てるというか、伝えたいし、伝われ!と思うし、思いを諦めないために物事って伝わらないものなのかな?と思うぐらい、なんかそういうチグハグ感が今回は大事だったのかなと思います。多分最後の最後まで会話ってかみ合っていないんですよ。だから、その大きさの違う歯車をずっと描き上げる、なんかそこに人の面白さを感じました。
最後まで会話が噛み合っていないとしても、この作品はそれすらも肯定してしまう。そこに思いを諦めないことの輝きを見出す。
山田尚子の言葉を借りれば、思いを諦めないために「伝わらない物語」が書かれた、と捉えることもできるかもしれない。
山田尚子は、ディスコミュニケーションに屈しない。
それどころか、だからこそ強烈に人間に惹かれているし、愛しているのだ。
歯車は噛み合わないからこそ、重なる瞬間が尊いものになる。
大きさの違う歯車同士がある一瞬動きが重なるような、そういった二人が重なる瞬間を希望的に描きたいと思いました。
そういう映画です。
- 1. 作品概要
- 2. 「噛み合わなさ」の物語
- 3. 身体的フェティシズムの再発見
- 4. 誰かを想うことと、誰かを理解することの、途方もなく遠い断絶
- 5. 結論:岐路は希望の兆しであれ。
- 6. 参考記事
- ※細かいこと雑記
このレビューでは、「噛み合わなさ(2.)」「まなざし(3.)」「恋と愛の違い(4.)」の切り口からそれぞれ作品のよかったところについてだらだら分析します。
長いので予め断っておきますが、特に中身はありません。ほとんど作品内部で描かれたものを語り直しているだけなので、むしろ無粋であるとも言えます。感想とか批評というものではありません、おそらく。だから、まさに単なるレビュー(re-view;再び見る)なのです。
本当はもう少し一本筋の感想を勢いで書き上げようとしたのですが(実際に一回書いたが全部消した)、ずっと『リズ』のことを考えていると頭がおかしくなってきたので、気がついたらこんなエントリになっていました。
このエントリはもはや私の頭がおかしくなっていく作用を抑制するためのものです。あの水玉模様で有名な草間彌生も、統合失調症の症状である幻覚・幻聴の苦しみから逃れるために作品製作に没頭したそうですね。そういうことです。
では、そろそろ本題に入ります。ネタバレあります。
ネタバレが嫌だという人は、とりあえず予告映像を観てから最寄りの映画館へどうぞ。松竹配給なので、MOVIXならだいたいかかってるんじゃないでしょうか。
この映画は本当に映画館で観てほしい。音を聴いてほしいし、あるいは聞こえない音を感じてほしい。
1. 作品概要
2016年の『映画 聲の形』から約2年、山田尚子にとってはこれが長編4本目の監督作品にあたる。
TVシリーズである『響け!ユーフォニアム』の続編でありかつスピンオフという位置づけではあるが、これ単体としても成立するよう意識して制作されている。
しかし正直なところ、TVシリーズを知っていた方が圧倒的に楽しめるのは間違いない。
1.1. あらすじ
あの子は青い鳥。
広い空を自由に飛びまわることがあの子にとっての幸せ。
だけど、私はひとり置いていかれるのが怖くて、あの子を鳥籠に閉じ込め、何も気づいていないふりをした。
北宇治高等学校吹奏楽部でオーボエを担当する鎧塚みぞれと、フルートを担当する傘木希美。
高校三年生、二人の最後のコンクール。
その自由曲に選ばれた「リズと青い鳥」にはオーボエとフルートが掛け合うソロがあった。
「なんだかこの曲、わたしたちみたい」
屈託もなくそう言ってソロを嬉しそうに吹く希美と、希美と過ごす日々に幸せを感じつつも終わりが近づくことを恐れるみぞれ。
「親友」のはずの二人。
しかし、オーボエとフルートのソロは上手くかみ合わず、距離を感じさせるものだった。
彼女たちは「リズと青い鳥」の物語を自分たちの関係に重ねながら、互いのことを想い、羨望し、絶望してゆく。それでも……。
「物語はハッピーエンドがいいよ」
要するに百合。京アニ渾身の百合アニメです。
解釈が分かれるところではありますが、私自身はこの映画はハッピーエンドであると強く信じています。そこのところについても最後に触れます。
1.2. スタッフ構成
詳細は公式サイトスタッフ一覧ページを。
- 山田尚子監督の前作『聲の形』スタッフが再集結している。
- 企画立ち上げ当時、TVシリーズの監督・石原立也のスケジュールが確保できないということで、ちょうど山田尚子組に白羽の矢が立ったらしい。
- 山田尚子はシリーズ演出から監督へ。
- 脚本家の吉田玲子はそのままTVシリーズから続投。
TVシリーズとの違い
上記の通り、TVシリーズとはまるで違うスタッフ構成である。物語としては引き継いでいるものの、描写のトーンや空気はまるきり別物になっている。
一番目立つ違いといえばやはりキャラデザだろうか。TVシリーズでは池田晶子がハルヒ以来久々のキャラデザを務め、『リズ』ではそれを原案にして西屋太志が引き継いだ形となる。
池田氏のデザインの特徴としては女性らしさをデフォルメしたような点。瞳や胸は丸く大きく、メリハリの効いたボディライン。塗りで言うと髪や目のハイライトも強調されている。
一方で『リズ』での西屋氏のデザインはとにかく細い。不安になるほど首筋のシルエットは痩せて、頭身もずいぶん高くなっている。細い線で密度を上げるという志向だろうか。それによって髪の毛先や睫毛の動きにまで感情を乗せることに成功していると思う。
2. 「噛み合わなさ」の物語
さて、『リズ』は二つの物語からなる。
一つは吹奏楽部を舞台にした鎧塚みぞれと傘木希美の物語。
もう一つは、作中の絵本世界でのリズと青い鳥との物語。
これらが互いに絡み合いつつ呈示されるという構造である。
いずれの登場人物も互いの相手について愛しく思っているものの、そこには無理解がゆえの問題が生じている。
ここからは、もっとも『リズ』の「噛み合わなさ」を象徴していると思われる導入部について一通り考えてみる。
2.1. 導入部
ファーストカットでは絵本『リズと青い鳥』の世界が描かれる。リズが森の中で動物たちと交流していると、どこからかやって来た青い鳥と目が合う。青い鳥は飛び立ち、あとに綺麗な羽を落とす――
リズ「まるで空を映した湖のよう」
これは絵本の冒頭で、今作のもっとも象徴的な場面の一つである。
そして、もう一つの物語は登校シーンから始まる。
足音がする、歩いているのはみぞれだ*1。彼女は校舎前の階段にまで来ると、そこに誰かの姿がいないことに気付き、その人物を待つ。
しばらくして快活に歩いてくる足音が聞こえる。希美だ。希美はそこで青い鳥の羽を見つけると、待っていたみぞれに羽を手渡す。
ここが非常に印象的で、静かな序盤のなかでひときわダイナミックなカメラワークで映される。仰ぎ見る空に、羽を落としたはずの青い鳥はいない。
注目すべきは、ここで「希美が羽を拾って、みぞれにそれを手渡した」という点。そして、「先に待っていたみぞれを、希美が追い越す」というところも象徴的だろう。
羽をもらったのはみぞれだけではない
希美から羽をもらったのはみぞれだが、希美もまた羽を拾っている。彼女がもとより持っていたものではない。意味深。なんというか、これだけで「この映画より以前にも彼女たちの物語があったこと」が示唆されるのがすごい。
もちろんこの場面は希美=青い鳥という印象を与えるミスリードとしても機能している。
二人は並んで歩かない
で、おそらく観客が一番最初に感じる違和感はここだろう。言葉少なに笑い合う二人はとても仲がよさそうに見える。しかし二人は一緒に並んで歩くことはなく、先に待っていたみぞれを追い越して希美は早朝の廊下を歩いてゆく……。ずれた足音のリズムが、廊下に響き渡る。
序盤はその背中を追うみぞれの視点に寄り添って描かれる*2のだが、そのまなざしに宿る羨望が、違和感を覆って見えなくさせる。もちろん見えていないのはみぞれなのだが、意識しなければ観客もそれを忘れてしまうかもしれない。
そこに演出的な技術がある。驚くべきは「登校」という日常の細やかな切り取り方だろう。この「描写の視線」についても後に触れる。
2.2. disjoint――「うれしい」があばく関係の溝
そして二人は音楽室へ。この時挿入される謎のクレジット「disjoint」についても触れておきたい。
disjoint
❶ 〈秩序・関係・団結力など〉を乱す;…を支離滅裂にする.
❷ (やや古)…の関節をはずす, …を脱臼させる, …をばらばらにする.
━(自) 関節がはずれる, ばらばらになる.
━━[形] 〘数〙〈2つの集合が〉共通元(げん)をもたない, 互いに素の.ジーニアス英和辞典 第5版
見ての通り、二人の関係を端的に表現した語である。二人のいざこざは確かに秩序を乱していた*3し、そして今作でフォーカスされる二人の噛み合わなさが「互いに素」という用語で暗喩されている*4*5。
* * * * *
さて早朝の音楽室には、まだ他に誰も来ていない。静寂のなか、二人だけの時間を過ごす。そのなかで、のぞみはため息のように小さな言葉を漏らす。
みぞれ「うれしい」
希美「私もうれしい。これが自由曲なの、すっごくうれしい!」
この二人の「うれしい」は質的に異なるものである。みぞれは希美と一緒にいられるその時間の尊さを思い、そして希美は純粋に音楽に熱中できるということの喜びを噛みしめている。disjointだ。
彼女たちの言葉は噛み合わない。みぞれの思いは伝わらないままで、そっと泉に脚を浸すように、フルートとオーボエの音色が重なる。ここでもまた微妙なズレを伴って。
2.3. 「プールに誘う」ことの意味
『リズ』においてこうした「すれ違い」や「噛み合わなさ」を思わせる描写は山ほどある*6。もはやサブリミナル級なので、一つ一つとりあげるときりがない。
余談になるが、個人的にあと一つだけ指摘しておきたいのは、作中でのプールの意義についてである。
希美がみぞれをプールに誘う場面は物語における一年前の出来事*7を否応なしに想起させる。TVシリーズでのいざこざについてはピクシブ百科事典の傘木希美の項目に詳しく書かれているので、視聴済みの人は『リズ』を観る前後におさらいとして読んでおいてもいいかもしれない。
かいつまんで記すと、彼女たちが一年生の頃、部内での揉め事に巻き込まれる形で希美は吹奏楽部を辞めてしまった。しかし、希美はみぞれにその事を相談すらしなかったというのが原因で、みぞれは「希美から拒絶された」という意識に苛まれてしまう。
しかしそれから一年経ち、問題の元凶となった当時の三年生がいなくなると希美は再び吹奏楽部に復帰しようとするが、みぞれが希美に対してどんなに複雑な思いを抱えているのか、まったく知らないままである。そんな希美を、当時副部長だったあすかは拒み……。
というのがTVシリーズ2期でのエピソード。
2話はプール回。この段階では、まだ希美とみぞれの関係が回復しておらず、希美はみぞれを誘うことなく遊びに来ていた。TVシリーズの主人公、久美子は希美と偶然出会い、そこで過去の出来事について相談を受けるという重要な回でもある。
ここで注目すべきポイントは希美はまだみぞれを誘わなかった(誘えなかった)というところ。
しかしその問題を乗り越え*8、希美が復帰した『リズ』では満を持してみぞれを誘うのだ。TVシリーズから追っている人には感涙ものである。
しかし――そこにみぞれがダブルリードパートの下級生たちを呼んでしまう*9。「みぞれの人間関係」がここにきてようやく構築されようとしており、確実にこれは彼女にとっての成長なのだけれど、そこで希美は戸惑いを隠せない。
このあたりで希美は自分の中の独占欲のようなものにおそらく気付き始めるわけだが、まだそれは彼女の中で不確かなままである。この感情は、後に音大受験のくだりで確固たるものとして露呈されることになる。
3. 身体的フェティシズムの再発見
さて、2章では『リズ』の「噛み合わなさ」について扱ったが、噛み合わないものの一つには「視線」が挙げられる。冒頭の登校シーンはひたすら希美の背中を追うばかりで、ほとんど視線は交わることがない。
一般論として、映像作品における登場人物の眼差しは、あるときはカメラに憑依する形で対象を捉える。しかしカメラの視線が誰のものでもないとき、画面に映るものはいったい何なのだろうか?
ここではもう少し演出的な面から『リズ』における眼差しについて考えてみる。
3.1. 官能は対象物でなくまなざしに宿る
映画での情感を想起させる素敵な感想があったので、少し長いが引用する。
鎧塚みぞれが登場してから傘木希美と2人で部室に入るまでに丸々5分間は費やしており、この時点で画面は情報の洪水めいている。必ず傘木希美の後を付いていこうとする鎧塚みぞれと、間違いなくそれを知っていて言葉少なに歩く傘木。急に階段の手すりから笑顔をのぞかせる傘木と、それを眩しそうに、驚いたように見やる鎧塚みぞれ。踊り場に出た鎧塚は階段の上を振り仰ぐが、カメラは階段を斜めに撮る(視点の主である鎧塚の不安が垣間見える)ばかりで傘木の足を画面の端にかろうじて捉えるのみ、階段の上は陽光が充ちて明るく、その光の中へ弾むように歩き出す傘木(この瞬間の傘木は間違いなく”鳥”だった)をやはり眩しそうに眺める鎧塚みぞれ。部室の鍵を差し込む鎧塚は一拍おいてから鍵を開ける、鍵を開けることに億劫なように、ともすればこのままドアの前で日が暮れるまで佇んでいたいと思わせるほど長い”一拍”ののち、開かれた部室に傘木は踊るようにくるりと回転しながら入っていく。これまで何度も繰り返されてきただろう二人の朝の情景、その日常に埋没して見えないはずの決定的な一回性が、ここでは痛ましいまでの緻密さで描き出されている。それがいずれ夢に回顧されるだけの幻となることが運命付けられていることを、この日常は、痛切に物語っているのだ。
リズと青い鳥(ネタバレ感想) - 鳰のような形をした僕の迂回路
脚、歩くさま、窓の鍵を下ろす指先、風に揺れる髪、光が滴るような睫。
楽器に触れる唇、呼吸。
身体性のフェティシズムが、カメラによって暴かれてゆくようでもある。『リズ』におけるカメラ(視点)の機能の一つは、そこにもある。それはお仕着せの「フェチ」としてあざとく描かれているわけではない(京アニ作品にはそういうものも多い)。初めからそこにあったものを、ただカメラが発見するかのように、それを捉えてゆく。そのあまりの自然さは「その美しさを、私も知っていた」と錯覚するほどだった。
しかしここにおいて本当に重要なのは画面に映るそうした個々の対象だったのだろうか?
フェティシズムはモノそれ自体に宿るものではない。先の再発見にも似た感覚はおそらく私だけが感じたものではないだろう。なぜなら、フェティシズムというものは視線と不可分なものであるからだ。
確かにクライマックスの対話シークエンスでは、この冒頭における希美の所作を捉えるショットの断片が瞬時に呼び覚まされる、という大技が披露される。演出面では視線の諸対象はそういった機能を果たしていると言える。
しかしここではもう一つの視線の機能について考えたい。
いったん作品から離れて、ある思春期の女性を仮定しよう。彼女は自分の身体が「いやらしい」と思う。その「いやらしさ」というのはどこから来るのかと言えば、おそらくは彼女の身体の内側からではなく外側、他者からの性的な視線がそうさせている部分があるのではないだろうか。
いやらしい目で見られることによっていやらしく見えてくる、そういったことは往々にしてある。
『リズ』においても同様で、希美の身体を捉えるショットの断片すべてが、希美の身体に外側から美しさを与えているように思える。つまり我々はカメラに映る人物の身体や所作を通じて、実際にはそれを見つめている視線の美しさを見ていることになる。
この主客入り交じったような表現は「アニメーションにおいてカメラ的な描写*10をすること」によって為し得るものの一つの極致だと思う。
少し話が脱線するけれど、私はこれまでずっと京都アニメーション作品において多用されるカメラ的な映像に「綺麗だ」とは感じつつもずっと違和感を抱えていた。「なんでアニメでわざわざ実写みたいな絵作りをするんだろう? アニメだからこそカメラという制約のない表現ができるのに」云々。
そもそも実写においては「カメラ」の存在というのは原則的に隠蔽されるものだ。あくまで自然に、気配を消して登場人物や風景を映し出すのである。そうすることによって観客は、それがフィクションであることを忘れて作品に没入することができる*11。
それなのに、一方でアニメはしきりにカメラ概念を作品の中に取り込もうとしているように見える。これは一体何故なのか。
そこで『リズ』を観て一つ納得したのは、「カメラの存在感が描かれること=まなざしの存在の示唆」でありうる、ということだ。しかもそれが必ずしもPOVとして描かれるわけではない、というのがいい。いつの間にか視線は画面の登場人物だけのものではなく、観客にとっても共有されうるものとして、そこに立ち現れてくる。
山田尚子「画面作りとしては、鳥かごの機能としての「学校」ということと、どこか神聖で不可侵なものというイメージがありましたので、凜とした公平な空気を感じられるようなカメラの据え方を意識しました。」*12
3.2. 演奏シーンにおける絵作りと音
終盤でのオーボエ&フルートの演奏シーンは間違いなくこの作品における最大のクライマックスだった。音楽はもちろん、演出の力の入れようも圧倒的である。
カメラの手ぶれすらリズムと一体となって、指揮棒の動きに合わせて小さく追うようにパンする映像――。シンバルの音で一瞬ピントがボケるところなど、観ているこちらの視覚にも影響を及ぼすようでさえあった。
演奏後に泣いてる女の子のカットが一瞬入るのなんかはやり過ぎ感がなくもなかったけど、「そらこんな演奏聴いたら泣くわ」と思わせるような説得力が確かにあった。
このように、映像の動きに追従してパンするようなカメラムーブを、「アイラインキャプチャ」と呼んだりするらしい。
愛読しているアニメ演出ブログの記事にずばりそれについての話があったので引用する。記事そのものは京アニ作品を中心に扱っているが、次の引用は実写のデヴィッド・フィンチャー監督作品について語られている文章。
誰かの動作を、逐一目で追ってしまう時というのは一体どういうときか?
恋愛の相手であったり、心配事を抱えた家族、悩める友人、大切な相手・重要な関係の場合が多いですよね。そういう相手が振る舞いの中で自分だけに見せるわずかな感情の変化から、人は往々にして目が離せない。フィンチャーはそれを逆利用します。カメラムーブでキャラクターのわずかな動作を執拗に追い、目を離させない状態を先に作り上げて観客の意識を奪いにくる。観客は無意識のうちにその場にいる誰か(キャラクター)の目線に「閉じ込められてしまう」、画面の中の「感情」の動きに注意を奪われ、没入させられる。
もう十分ですね。これ以上私が何か言う必要もないだろうが、要するにカメラ(視線)の動きをそのまま感情の動きに同期させる、という演出である。
ちなみに同記事内では京アニ・藤田春香の演出についてフォーカスしているが、『リズ』では演出としては参加されていない様子(おそらく)。
『リズと青い鳥』のパンフで藤田春香さんの名前を探してたけど、今回は演出されていないんですね。原画もされてない。ただ製作委員会の京都アニメーションスタッフの一人としてクレジットされているだけだった
— 元家千佳 (@motoiethicka) 2018年4月30日
演奏シーンを映すカメラワークの積層によって、グルーヴの高まりを生み出す。まさにこの場面においてうってつけの演出だったと言える。
3.3. フルートの光――偶然を奇跡に変える魔法
『リズ』を観て泣いてしまった、という話をTwitterでよく見かける。まるで向日葵のようなみぞれの笑顔に、癒やされるというレベルを超えて思わず涙した方も多いのではないだろうか。まるで普段から呼吸を止めているかのような彼女がほんのひととき口元を綻ばせるという、ただそれだけのことがひたすら尊く思える。
そんな彼女の笑顔がひときわ輝く瞬間、それがフルートの光のあの場面。観た人にならほぼ間違いなくこれだけで伝わるだろうが、これは「みぞれが生物学室で飼われているフグに餌をやっていると、窓越しに向かいの音楽室から反射した光が差し込んで、よく見るとそれは希美の手に持ったフルートに反射したものだった」というシーンだ。この場面の尊さもまた、みぞれの視線にあると言っていい。
「光の反射」という、なんでもない偶然。それを奇跡のように見つめるまなざしこそが、奇跡にも勝って美しいのだ。
そしてさらに、みぞれが希美のフルートを見つめてしばらくすると、希美もまたその光に気付く。そこに言葉はなく、ささやかな視線の応酬だけがなされる、幸福な時間。みぞれはその奇跡を「今・ここ」に縫い止めるかのように長い視線を送り、にへらと破顔する。
しかし次にみぞれが瞼を開くと、そこにはもう希美の姿はない。
4. 誰かを想うことと、誰かを理解することの、途方もなく遠い断絶
4.1. 特別と平凡――進路という岐路
みぞれにとっての特別が、希美にとっては平凡な日常でしかないということがフルートの光の場面で強烈に前景化される。2章でもいくつか触れた「噛み合わなさ」は、それでも二人の関係を破綻させるわけではなかった。
まるで噛み合わないにもかかわらず、なぜかうまく回り続けてしまっている歯車のようだ
日記:百合と「リズと青い鳥」に関するメモ(噛み合わない歯車の回転について) - しゆろぐ
しかし、おそらくフルートの光の場面後から物語は急激に変質する。それまでのぞみに寄り添っていたカメラの視線が今度は希美のほうへと移り、それによって噛み合わない違和感は不協和としてはっきり描かれることになる。
そのもう一つの契機は、「進路希望調査」のくだり。
「進路」は夢と現実のあいだにそびえる壁を、遠慮なく突きつけてくるものだ。部活動で「全国に行きたいね」と夢を語ることと同じように口にするのは難しい。それは希美にとっても同じである。
希美は音楽が大好きで、だからこそ努力を怠らない。周囲からも実力を認められているが、それはたゆまぬ練習のうえに支えられているのだ。『ガラスの仮面』で言うところの姫川亜弓ですね。
しかし希美は、新山聡美(顧問・滝先生の音大時代の友人)がみぞれに音大受験を勧めたことを知ってしまう。「新山先生は自分ではなく、みぞれを選んだ」という事実に、希美は苛まれることになる。
一方でみぞれは才能の人。にも関わらず、音楽に対して希美ほどの執着はない。むしろ希美と自分とを結びつけるものとして、音楽にすがりついているようにも見える。そのためみぞれは当然のように「希美と同じ大学」を望もうとする。彼女にとっての一番は、比べるべくもなく希美なのだ。*13
みぞれのそうした態度もまた、希美の抱える羨望や嫉妬を膨らませてゆく。
進路についての葛藤が、そうした二人のズレをも露見させるのである。
演出面からも触れておこう。
音楽室で3年生の希美・みぞれ・夏紀・優子らが進路について語る場面がある。
みぞれが軽やかにピアノを弾くなか*14、そこでは夏紀と優子がたまたま志望校が同じだと発覚したことを互いに茶化し合っている。二人は仲が良いがゆえに、志望校まで同じとかありえないよねと愚痴をこぼしているのだが、その言葉にひそかにみぞれは反応する。ピアノの演奏は長調から短調へと移ろい、心情を言葉以上に饒舌に物語る。これも「音楽」を使った心情描写として面白い。
音大に行くのか、それとも普通の大学に行くのか。
この二人の進路についての選択が、これまでの二人の関係に正面から向き合う契機として物語中に配置されている。視野が狭くも見えるけれど、これはこれで「普通の高校生」としての等身大の悩みだろう。
またこれが作中作としての『リズと青い鳥』の物語と重なってゆく。「相手のことが好きだけれど、最終的には自分のもとから青い鳥を解き放つ」というリズの心理を、みぞれはずっと読み解けないでいる。希美は希美で、それをわかったつもりになっている。
そして、結果的に二人の決断を促すきっかけになるのが、久美子と麗奈(TVシリーズの主人公二人)の演奏である、というところが憎い。二人はいつもの校舎裏の練習場所で、突然ユーフォニアムとトランペットで演奏を始めるのだが、それがなんと二人の担当ではないオーボエとフルートが掛け合いをするパートなのだ。絵本の物語で言うと、まさにリズが青い鳥を愛ゆえに解き放つ場面。
絵本の台詞に「あぁ神様、どうして私にカゴの開け方を教えたのですか――。」とあるが、久美子たちの自由で互いに高め合うような演奏が、希美やみぞれにカゴの開け方を教えたのだと言えるかもしれない。
そして二人の噛み合わなかった歯車がきれいに回り出すのかと思えば、必ずしもそうとは言えないのである。
4.2. 「好き」の齟齬――大好きのハグ
『リズ』の世界には、女子学生たちの遊びとして「大好きのハグ」というものがある。これは人に抱きついた状態でその相手の好きなところを列挙してゆくというもので、おそらく気恥ずかしさを楽しんだり、より親密になるというのが趣旨なのだろう。
そもそもが遊びであるそれを、二人は遊びですることができない。
映画の前半で、いったんは会話の中だけで終わってしまった*15「大好きのハグ」を、しかし終盤ではみぞれの方から切り出す。ここにどれほど大きな苦悩があったか知れないが、それに対してさえ希美は「今度ね」と軽く答える。希美は彼女に正面から向き合う覚悟が持てない。
しかし久美子と麗奈の演奏によって一歩前に踏み出した二人は、演奏の面で抱えていた問題をも解消し、ようやく「大好きのハグ」を交わすことになる。
上述の3.2.で「終盤でのオーボエ&フルートの演奏シーンは間違いなくこの作品における最大のクライマックスだった」と書いたが、これが「転」のピークであるとすれば、「大好きのハグ」は「結」における最大のクライマックスであると言えるだろう。
二人の感情が直接言葉として吐き出される瞬間は、映画の中でもほとんどこのシーンに集約されるかもしれない。
みぞれは言う。「希美と居られれば何だっていい! 希美が、私の全部なの。希美は、私の特別。希美にとって何でもないことが、私にとっては全部特別なの!」
そして、大好きのハグ。みぞれは希美の「好きなところ」を叫ぶ。希美にとってはなんでもない、希美の身体、希美の所作、それらによって形作られている希美そのものが好きであるという告白だ。
この瞬間に、冒頭の登校シーンのカットすべてが呼び覚まされる。走馬燈のようにあの一瞬一瞬が脳裏に蘇って、あれが冗長ではなく必要な描写であったことを観客に確信させてくれる。みぞれの言葉とまなざしが重なることで、この映画が積み重ねてきた情感がここにピークを迎えることになる。
しかし、そこでみぞれの言葉を遮るようにして希美は「みぞれの、オーボエが好き」と囁く。その表情は、とても優しい。
このたった一言の台詞に、この時伝えられる限りでの希美の思いがすべて込められていたように思う。これは心からの愛であると同時に、それは最も残酷にみぞれを突き放す言葉でもある。
みぞれはどうしようもなく、希美との「好き」の質的差異を突きつけられてしまう。しかしこの時、希美もまたみぞれに自分のフルートを認めてもらいたかったのだ。
この場面は一面的には「決別」の場面のようにも取れるだろう。二人の「好き」の質的差異が、これから違う道を歩く二人の背中を後押しするのだと。さながら作中作においてリズが青い鳥を自由な空のもとへと帰したように。
実際にこの後に希美は音大受験を諦め、普通の大学受験のための勉強を始める。希美は図書館に向かい、一方でみぞれは音楽室へと向かう。その動きは画面の中においても明確に逆向きに描かれている。
しかし、きっとそれだけではないはずだ。この場面は確かに「決別」なのかもしれないが、二人の歯車が今度こそ噛み合う予感もまた描かれていることを忘れてはいけない。
みぞれは、希美に「みぞれの全部が好き」と言ってほしかった。
希美は、みぞれに「希美のフルートが好き」と言ってほしかった。
相手がいったい何を求めていたのか――二人は傷付き、絶望しながら、ようやくにしてそのことを知ったのだ。二人は互いに噛み合わない歯車であることを確かめることができた。
たとえ誰かを心底想っていたとしても、その相手を理解するまでの道程には途方もなく遠い断絶がある。そのことを知りながらもなお互いを求め合う、というところに、私は希望を感じずにはいられない。
二人は互いにすれ違いまくっているわけなんですけど、「ちゃんとすれ違う」ということはしかし希望でもあると思います
— 元家千佳 (@motoiethicka) 2018年5月3日
すれ違うこと自体が、もはや希望として存在しているのだ。
そして歯車が噛み合う瞬間(=ハッピーアイスクリーム!)の予兆を祝福するかのように、窓の外には鳥が二羽、羽ばたく。
『リズ』の物語は、希美/みぞれとリズ/青い鳥との対応の逆転を描いただけではなく、結局二人とも青い鳥になったという話なのかもしれない。青い鳥はこの作品で唯一、童話と実世界との間を自由に行き来する存在である。まさに自由であることの象徴だ。
最初は二人とも互いが互いを縛っていた(=リズ)のが、ここで二人は解き放たれ、自由になったのではないだろうか。
5. 結論:岐路は希望の兆しであれ。
そして「別々の道を一緒に歩く」とでも言うべき下校シーンによって、この映画は締めくくられる。二人が選んだ別々の道をこそ、この映画のまなざしは温かく見守るようである。
例えば映画「花とアリス」は序盤で春の登校の様子を描き、ラストシーンでもう一度登校の様子を描いている。これは作中で描かれる非日常的な事件の後に「通学」という循環的な日常に回帰していくことを意味する。一方、「リズと青い鳥」においては冒頭の登校シーンと対応するような下校シーンが描かれて物語が終わる。日常への回帰をイメージさせるなら、冒頭と対応するような登校シーンが描かれるべきで、終始学校の中で展開していた物語が下校によって幕を閉じるのは、学校から出て行ってそれぞれの進路に向かっていく希美とみぞれを意識しているのだろう。
日記:百合と「リズと青い鳥」に関するメモ(噛み合わない歯車の回転について) - しゆろぐ
この下校シーンで、二人はようやく横に並んで一緒に歩く。歩幅は違うけれど、遠い周期でその足音は重なるのだ。
その音がぴったりと一致するたった4歩の間に、それもまた奇跡のように二人の言葉は同じフレーズで重なる。すかさず「ハッピーアイスクリーム!」を叫ぶのぞみのまなざしは、やはり尊いものだと私は思う。
希美はみぞれに「完璧に支えるから、ちょっと待ってて」と伝える。そう、だからみぞれも、私たちも、ただそれを待てばいいのだ。きっとまた訪れる幸福を希いながら。
さて、希美は「物語はハッピーエンドがいいよ」と語っていたけれど、この結末は果たしてハッピーエンドだったのだろうか?
だが、そもそもこの物語は二人の関係について結末を用意していないのだ。未来が可能性として開かれているからこそ、そこに物語を見る者の「願い」が込められる。『リズ』は、この願いをこそ尊いものとして描こうとしたのではないだろうか。
吉田玲子「ストーリーも希美の気持ちに決着が着く最後までは描いていませんが、二人の幸せを願うラストになっています。」*16
山田尚子「音楽の牛尾(憲輔)さんがものがたりの最後の締めの音に、「ピン」とひとつだけ音を入れてくださったことで全部解決したんです。そのたった一音がものがたりをとても肯定的な世界にしてくれて……。」*17
*18ハッピーエンドとは、ハッピーエンドを願うマインドとそれを肯定する世界の描写なのでは
— 元家千佳 (@motoiethicka) 2018年4月30日
だからこそ私はこれからもさらに続く物語がハッピーエンドであることを願う。
この願いによってこそ、二人は祝福されると信じている。
6. 参考記事
- 山田尚子監督インタビュー | 『リズと青い鳥』公式サイト
- 【インタビュー】山田尚子監督が『リズと青い鳥』の監督を担当した経緯とは。『アニメディア』掲載インタビューの冒頭を早出し | ニコニコニュース
- 「リズと青い鳥」山田尚子監督「彼女たちの言葉だけが正解だと思われたくなかった」|Zing!
※細かいこと雑記
・男子の肉体の消失
・絵本パートの暴風のカット、オズの魔法使い?
・リズと青い鳥が再会する場面で、青い少女の髪がブワッと広がるところジブリ
— 元家千佳 (@motoiethicka) 2018年4月30日
『リズと青い鳥』で最大の惜しい点は、あくまでこれが独立した作品であるとはいえ「ユーフォのスピンオフである」という立ち位置であることには変わりないってところだと思う。心から。TVシリーズも良かったけど、既存ファンだけの作品にはならないでほしい……
— 元家千佳 (@motoiethicka) 2018年4月30日
『リズと青い鳥』を観た後にTVシリーズを見返すと、キャラクターがみんなむりんとしてセクシーに見える
— 元家千佳 (@motoiethicka) 2018年4月30日
ユーフォ2期2話を見返している。
— 元家千佳 (@motoiethicka) 2018年5月3日
「あすか先輩は、特別だからねぇ」と言う希美のとぼけ顔に胸が痛くなる。みぞれこそ希美の特別になりたかったはずなのにね……
2回目観て気付いたのですが、TVシリーズほどあからさまではなかったにせよ、「懺悔は十字架のもとで」という演出はこっそり『リズと青い鳥』にも仕込まれていました。麗奈の指摘によってみぞれが心情を吐露する場面で、窓枠の影が十字になって壁に影を落としている。
— 元家千佳 (@motoiethicka) 2018年5月7日
あと「まばたきする音」の話をTwitterで見かけて、自分は気付かなかったのでそれも確かめようと思ってたのですが……わかったのが1パチ(まばたきの単位)だけでした。
— 元家千佳 (@motoiethicka) 2018年5月7日
これこそ「映画館」という空間の持つ強制力なんだと思います。単純にスクリーンがでかい、音響がいいってだけじゃない。大勢の観客がいるからこそ、描かれる静謐は観客の息を殺す力を持つ。それが鑑賞体験になる。
— 元家千佳 (@motoiethicka) 2018年5月8日
https://t.co/0xoFqOdO9p
— 元家千佳 (@motoiethicka) 2018年5月9日
山田尚子監督、ゴダールが好きという話を聞いたんだけど、おそらくソニマージュの概念を意図的に作品に取り込んでいる pic.twitter.com/bg29Y1gfKh
* * * * *
こんなに長いのに読んでくださってありがとうございました。
もしまだ『リズと青い鳥』を観ていないという方がいらっしゃったら、今すぐ観てください。一緒に二人の幸福を願いましょう(宗教勧誘)。
サントラも素晴らしいです。このレビュー書くために通しで20回くらい聴きました。
映画『リズと青い鳥』オリジナルサウンドトラック「girls,dance,staircase」
- アーティスト: 牛尾憲輔
- 出版社/メーカー: ランティス
- 発売日: 2018/04/25
- メディア: CD
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それではまたどこかで。
*1:ここでかかるBGMが素晴らしい。足音のリズムがそのまま音楽となっていて、紙のめくり、彼女たちの生活を音楽にしたような楽曲になっている。公式のメイキング動画では足音を音楽に入れ込んでいる様子を覗うことができる
*2:この冒頭からいくつか挿入されるみぞれ視点のPOV(=Point Of View;いわゆる主観ショット)は唸るほど巧みだ……。まずここで観客はみぞれに半ば憑依させられる
*4:ちなみに作中で数学の授業を受けている場面があるが、そこで教師が「互いに素」について解説している
*5:ちなみにこのクレジットの背景で、淡い水彩の赤・青の円がそっと触れるようにして滲んでいるのは山田尚子によるとベン図らしい。まさにそのまま二人が「互いに素」であることを表しているという訳だが、これがラストには互いの部分を包摂するように滲みが広がっている。エモい。
*6:希美の「また明日」とか、みぞれの「本番なんて一生来なくていい」とか
*9:本題から逸れるが、オーボエに一年生の剣崎梨々花が入ってきたというところは特筆に値する。一年前の確執には「吹奏楽部にオーボエを吹けるのがみぞれしかいないため、彼女に問題を起こさせるわけにはいかない」という理由が少なからず絡んでいたからである。立場的にも、精神的にも、梨々花はみぞれの支柱の一端を担うことになる
*10:例えば被写界深度によるフォーカス・その推移、レンズフレアなど
*11:もちろん、メタフィクションを扱った作品や、カメラワークに凝った一部の作品(ウェス・アンダーソン監督『グランド・ブダペスト・ホテル』とかね)などの例外はある
*12:パンフレット p.5
*13:希美と同じ志望校にすると決めているのに、「どこ狙ってるの?」を訊けない鎧塚みぞれがたまらなくいじらしいですよね……。
*14:みぞれはピアノも弾けてしまう……。なんでも上手に演奏できてしまうというところに、彼女が部で唯一のオーボエ奏者だった理由にもどこか納得できるような気がする。みぞれはおそらく最初は音楽そのものに対しても、オーボエという楽器に対しても、そこまで強い執着はなかったのだろうと思う。原作未読なので、ひょっとするとそこに関する記述があるのかもしれないけれど
*15:希美の「なんて。イヤだった? ごめんごめーん」がキツすぎて死ぬ
*16:パンフレット p.5
*17:パンフレット p.6
*18:循環定義ですが、細かいことは気にするな