破倫館

倫理的人生

無題

何か面白いことになるかなと思って賞味期限切れ未開封の牛乳パックを部屋に置いて観察していたのだけど、結局一ヶ月ほど過ぎて何もなくて、ああなんだと思って捨てた。洗い物の溜まったシンクに流した。

その白くてさらさらした牛乳は見た目も臭いも普通にいつもの牛乳で、ひょっとしたらまだ飲んでも平気だったんじゃないのと思えるくらいの普通っぷりだった。よく考えたら今は冬のただ中で、室温が氷点下だったりもする。そう簡単に腐らないわけだ。

つまんないの。

何かに期待したかったのかな?

期待するにしてもほかにもっとましなものがあるだろうと自分を責めたくなって、何よりもそんなことに時間と興味を費やして苛立っている自分がいちばんつまらなかった。

 

あらゆるものに対する期待のハードルがどんどん下がっている気がする。

今は以前に比べたら漫画を読まなくなったけれど、読めば面白い。アニメは比較的気楽に観られるのでだらだら観ていて、だいたい面白い。映画も観る。有名どころばかり観ているせいかもしれないけれど、つまらないもののほうが少ない。

楽しんだもの勝ちって考えもあるけど、どんなものにもそこそこの価値を見出すだけでそれ以上がない。

 

昔はもっとぐさぐさ刺さっていた気がする。

あらゆる物語や意志の力に対して無防備だった。

もっと面白いものはないのかという飢餓感が常にあって、それでもやっぱり期待をとびこえて突きさしてくるものたちを、愛していた。

愛するがゆえの愛するための言葉が自分の内側から溢れて止まらなくなることがあった。

 

今はそれがない。あるのかもしれないけれど、とても薄い。

ああ、でも『勝手にふるえてろ』って映画はよかった。久々に刺さった。私を生き写したかのような主人公に、自分の振る舞いや言動のきもちわるさを突きつけられるようで苦しくなった。ああこれ私だ、私ってこんなことする、こんな変なのか私って、どうしようもないな、私。

でもその自分の分身は映画の中では結局きっちり救われていて、その救いがおそらく用意されていないであろう私の人生を思って、よけいにしんどくなった。

これは例外。

 

自分の弱さをたてにして甘えてきたつけが回ってきたんだなと思った。自傷するかのようなポーズでむしろ自分を大事に大事に守り続けていたらだめになった。賞味期限が切れた。

身を削ぐような「死にたい」「生まれてこなければ」って言葉は口に出す寸前までは真実で、インターネットの文字の流れに飲まれたとたん希釈されて透明になる。

身体が全部なくなるまで削ぎ落とす覚悟もないままに、私にはなにもないんだなあ、私って本当は透明なんだなあって気付いてしまった。いや本当は気付いていたけど、しばらくは見ないふりでやり過ごせてしまった。

それでも私は自分の弱さをたてにする以外生きていく方法を知らなくて、それがかっこ悪いってわかっててもかっこ悪い保身にずぶずぶになっている。今もなお。

自分を守るための分厚い膜が全身を覆っている。

 

うまい生き方がわからない。

歳をとるたびに歩き方がぎこちなくなっていくのが、ただ悲しい。滑稽ですらない。

 

でも多かれ少なかれ誰しもそういうものを抱えて生きているんでしょう。

言われなくともわかる、だって私もその凡庸の一人でしかないのだし。

でもなんかさ、そういう互いの分厚い絶縁体でできた防護服がこすれあうだけの、何も生まれない世の中はちょっぴり寂しいと思う。

 

だから本当はそんな防護服なんて脱いで自分にないものを求め続けていかなければならないのだ。

傷つくかもしれないし、きっとすぐに疲れてしまうだろうけど、それができなければ本当の意味で死んでしまうだけだとわかった。少なくとも私は。極端に不器用なのだ。

 

だからみんなもっと期待しろ。

自分の人生に期待しろ。

幸せの自己ベストを常に塗り替え続けろ。

自分が思ってる以上に面白い漫画はまだまだ死ぬほどある、手塚治虫全集だってほとんど読んだことない。火の鳥は読んだ? まずはそれを読め。

宮崎駿監督もまだまだ壮健で新作を準備しているし、まだ読んだことのない小説はありすぎて困っているくらいだ。昔人に勧められた小説のタイトルをメモしたきり、手をつけていない。

だから大丈夫だ、もっと期待していい。

まだ出逢ったことのない誰かと幸せになれ。

あなたならきっと大丈夫。

 

でも私にはできない。

放置した牛乳は腐ってさえくれなかった。