破倫館

倫理的人生

朝汀

 黒曜石の断面のような水面が重く横たわっていた。その先端は鋭く光って、淡く煙った夜空を拒んでいるみたいに切り立つ水平線。吐く息は濁った黒になる冬の夜、
 しきりに鳴る電話の着信を切った。
「一五九二〇〇〇〇、」
 首都高速湾岸線、高架のへりを歩く浅未のお尻でスカートが浮き沈みをする。マニキュアの光沢が時速百キロのヘッドライトに照らされて鋭利。私を振り返るその横顔の睫も濡れたみたいに蠱惑的。
 十七歳。浅未は完璧だった。

「マイナス、一三五二〇〇〇〇、それは?」
 一歩また一歩、ローファーのゴム底がコンクリートを叩くのに合わせて息を漏らす、浅未の火照った言葉の意味を考えるけれど分からない。簡単な算数も処理できなくなる。すべての景色も音も匂いも体温も意味になる前の印象だけが透過して脳を震わせて、浅未のことを見ているといつも私は惚けてしまう。軽い貧血になる時の、快感、嘔気の予兆に似ている。
「ね、」私も一歩。「その計算問題センターに出るの」
 その時高架が揺れるほどのトラックが通り抜けてバンと風が舞った。浅未のスカートが舞い上がって、あ、と声が出る。
 あっは! と浅未は大声で笑う。
「出たらいいのにね」
「じゃあ何の数」
「何でもない数」
 浅未は高架のへりに立って鴎みたいに両腕を広げて街を見下ろす、下には倉庫が並んで先に埠頭、反対側には青くくすんんだ大小のビル群がある。
「大して面白くない答えだからこそこうして質問にすることで会話になるし、相手の考える仮想的回答が引き出せるほうが面白いと思うのきっと。思いついたかもしれない誤答も答え知ってしまえば消えちゃうかもだし正解よりもありえたかもしれない回答が聞きたいの」
大喜利じゃん」
大喜利でもいいよ、」
「ぐ」
「あるいはもしもの話でも」
 浅未は立ち止まり酩酊を頬に浮かべてニマと笑った。
 バンバンバンバンと車が通り過ぎてゆくが私たちはなかなか大人たちに見つからなかった。あるいは見つかっても見逃されているだけなのかもしれない。ハラハラ張り詰めた緊張も適度に緩めば高揚で、轢かれるかもって不安さえ何度も車が爆速で横切れば慣れる。捨ててしまえば処女なんてとクラスの女子も言っていた。
「もしも、」言いかけて数を忘れていたことを思い出す。でも意味ないなら関係ないかなとすぐに思い直した。
 着ていたぶかぶかのパーカーが息苦しくて脱ぎ捨てると外気が瞬く間に熱を攫って、少し汗をかいていたことにその時気付く。
 舌先には密かに毒をしたためて、先を歩く浅未に追いつこうと、歩を早めた。
「もしその数式がボタンの数だったら。世界中でほつれ外れ落ちたボタンと元通り縫い付けられたボタンの数の差とか」
「答えはなくしたボタンの数とか?」
「とか」ははははは苦笑い。
「世界規模にしては少ない気が」
「しないでもないね」
 浅未は唇を尖らせて誤答のブザーを真似た。「不正解。回答のチャンスはあと二回」
 余裕を崩さない浅未は踵弾ませるリズムを変えず私を試すみたいな笑顔も崩さず、気まずさに顔を引きつらせたのはむしろ私の方だった。
 ああなんて気味が悪くて楽しいんだろう。
「じゃあリベンジ」首筋に纏わる長い髪がヘッドホンに絡みついて首を締める快感、
「その数が私の寿命マイナス経過時間だったら、死ぬまでの残り時間になる」
 すると浅未の表情からすうっと温度が消えた。
「キワコまだそんなこと言ってるの」際子、私の名前。
「もしもの話でしょ」
「もしもでも死ぬとかちょっとさ」
 浅未の歩みが乱れて翻るスカートがくしゃりと形を崩す。美しい輪郭の綻びに思わず笑みがこぼれそうになる。
「死ぬよもしもじゃなくても」私のささくれのある指先が走って道路に対して垂直になった。浅未の視線が私の指を追って少し揺らぐと私の心臓もとんと跳ねる。吸い込まれるみたいに車線に漸近しながら歩いて私は、
「こんなのちょっとでも車線はみ出たら私たち藻屑だよ。あるいは道路にこのまま私が落」「やめて」「ちれば躱しきれずぶつかった車が急ブレーキで旋回して止まると後続車も驚いて追突バグシャって金属のひしゃげる」「やめてって」「音がして油の漏」「おい」「れた匂い。少し遅れて悲鳴、がクラクションでかき消えて。道塞がって苛ついた人が喚いて事故った車から骨折した運転手が這い出てくるけどその瞬間静電気で散った火花が引火して、」どん。と、浅未が私の胸板を頭突いた。膝を折ってしがみつくように胸ぐらを掴んで私を見上げる彼女は立ち上がりながら、私のヘッドホンを掛けた首筋をべろんと舐め、
「あ、んうっ」思わずのけぞる。
「声やらし」
「……どっちが」息切れしながら今度は私が見上げる形。のけぞったままの背をがっちりホールドされていて王子様かお姫様かで言えば後者が私。
 すぐ目の横を車が抜け、身体が跳ね上がるほどの寒気がした。風圧が、濡れた首筋に、痛いほどにひりつく。ひ、ひ、ひ、としゃっくりのような息が漏れ、いつの間にか車線と肩先腕一本分の距離にいた。
 しかめ面の浅未の湿った唇が開く。
「馬鹿じゃないの怖くないの。怖さははっきりそのまま怖さだよ。際子ちょっと麻痺してるよ」
 震えた声だった。
 その震えには説得力があったし確かにそうかもしれないのだった。
「うん怖い」そして思い出す。車に轢かれるのは怖い。死ぬのも当然怖くあるべきだ。
「あとすっごいエロかった」
「ふふ」
 笑いながら浅未は固まったままの私の頬をぺちんと掌ではじいて、背中に回していた腕を解いた。後を引く体温と残り香の甘さに溶かされる脳。それさえ私はいつか慣れてしまうんだろうか毎日使う柔軟剤の匂いが分からなくなっていくみたいに。本当は死ぬことより何よりそれが怖い。
「優しいなあ浅未は」勝ち誇るように言いながらも、あまりに惨めな浅未がたまらなく愛おしくなった。苦しくなった。死にたくなった。浅未が私を失いたくない気持ちよりもずっと、私は浅未のことを求めているのだと思う。
「そ言えば」
 と、言って、
 ぽんと跳ねる踵、
 浅未の揺れる長い髪の軌跡、
「どこに繋がってるのかなこの道」その微笑の熱。
 それらも朝になればすべて消えてしまうのだろう。
 私たちはどこへも行けるわけではないのだと、私は、どうしようもなく知っていた。
 パァーーーーーーーーーーとクラクションが鳴った。叱るように喚く男の声も重なる。
 私たちは目を見合わせると手を繋ぎ走って逃げだした。
 振り向きざまに浅未がバッグをぶんと振り上げ、何かと思う間もなくそれは宙に舞う。音が鳴るほうへ向かって放物線を描いた。
「きゃはは」子供みたいに笑う浅未につられて私も破顔する。
 手を広げて光に溶け込む私たちは鴎になる。

 


 高架脇に非常用梯子があったのでそこから駆け下りた。下りたそこからさらに数分走る。
 もう追いかけてくる人たちはいなかったけどそれでも二人手を繋いで万能感に支配された私たちは永遠に走り続けられるような気がしていたのだ。今ここにしかない胸の高鳴りを繋ぎ止めるように互いの手を強く握り、ひたすら夜の町の流星に乗る。マフラーも逃げる間にどこかで放り捨ててしまったようで靴まで片方脱げており、繋いだ逆の手に脱げた靴。がぽがぽ爪先に引っかけた靴音がコンクリートに反響して、散逸する泡沫をはじく。
 巨大な倉庫の横を通ると大きな換気扇が道路に沿ってぎっしりみっしり詰まって油と埃の混ざったような不快な温風を吐き出していた。停滞するへどろの匂いをかき回すだけかき回して、吐瀉物を拭う手まで汚れていくみたいな町。
 それでも、私の横で浅未は今ここにしかない瞬間を燃焼させて笑顔を輝かせている。
 いつも彼女の背中ばかり見ていた。
 隣を歩いても後ろを追いかけてるみたいな感覚だった。
 孤独。去年の今頃、私は生臭い血を一人で嗅いでトイレでうずくまるだけの小さな絶望さえも掛け替えない武器なんだと思い込んでいた。
「何あいつあの態度ほんとありえんちーーー」「ちーって」笑「私センスありますみたいな顔してほんとうざいんだよね死ねってあれ」「あーほんと分かる」笑「センスないからヴィレヴァンおすすめの棚漁ってるんでしょサブカル女って」笑「かわいそ図星すぎ」笑笑「知ってる?病み垢でリスカ画像上げてポエム吐いてるらしいよキワちゃん」笑「マジモンのキワモンじゃんそれ」笑「てかやっぱあのリストバンドってそういう」笑笑笑「そいやあいつこないだ裏原宿でスナップされたって」「は読モ?とかイキりすぎでしょ」笑「ちょっと待ってそれ超見たいんだけど。てかどこ情報なのそれ」「さ?自分で言ったんじゃね」笑笑笑笑「なにそれちょーウケる」笑笑笑笑笑。
 でもあいつらの言葉なんかで私は絶対に傷つかない。
 ただ少しずつ私自身で自分の存在を嫌いになっていくだけだ。
 ヘッドホンは哨戒機。私にとって魔法だったはずの音楽はいつしか緩慢な安定剤でしかなくなって、コード進行も恋も知らず自分にとって都合の良いフレーズにだけ耳を貸す。私の気持ちを誰かが歌ってくれているという錯覚だけを与えてくれる絶対安全ドラッグ。世界が変わって見えた奇跡的瞬間の幻想だけが膨らむ速度に、現実はどこまでも追いつけないままだった。
 今年私は受験生になった。
 予備校に通い始めた私は夏の終わりのクラス替えでなんとか難関校対策クラスへ紛れ込み、その教室で私は浅未と出会った。私の通う地元校の人たちばかり集まる予備校で彼女は唯一クラスで違う制服を着ており、しかもその制服はなぜかほつれた糸を強引に引きちぎったみたいにボロボロで、ボタンが所々ついていなかったりする隙間からブラも当然のように覗いていた。ちょっとしたお金持ち私立の可愛いブラウスだったけれど、触らぬ神よと思いながら私は見ない振りをした。
 当の本人はそんなことを気にも留めず隠そうともしなかったからなんとなく触れられない空気があったのだけれど、あるときクラスの女子が「ちゃんとボタンつけてきなよ見苦しいよ。そんなことで男子の気惹こうとするとか気持ち悪いってみんな言ってるよ」などと浅未の前で言ってのけたとき、彼女は読んでいた本を閉じて机の片隅に滑らせ、その手でその女子のシャツのボタンをばつんと引きちぎった。
 突然の戦争。
 引きちぎられた彼女はぎゃっと叫んでから慌てて胸を手で覆った。
「教えてくれてありがとう。確かに見苦しいね」と、微笑む浅未のそれが初めて観る彼女の笑顔で、いつの間にか私はヘッドホンを外して見惚れていた。私は一瞬で高邁高慢な浅未のことが大好きになった。
「ねえ、」
 私が初めて浅未に話しかけた次の日、浅未はシャツの胸の部分を安全ピンで留めて教室へ来た。
 もう誰も浅未には何も言えなかった。

 


「あっつう」
 浅未の額にじわり汗が滲んで前髪が張りついていた。
 自然と二人の足は止まり、上がった息が収まるのを待ってもふくらはぎと太ももはパンパンにはちきれそうだった。
 握っていた彼女の指が開こうとするのを感じて、私は慌てて手をほどく。夢の終わりはいつも曖昧で鈍い。私の手汗にまみれた指が器用にトグルを外すのを眺めた。
 コートを脱げば違う制服。
 ボロボロに痛んだ戦闘服。
 浅未は腕時計を見つめて「あ」と声を漏らした。頭上の高架を見上げて、
「ピッ ピッ ポーン」
 どこか間の抜けた浅未の言葉は背の低いビルの隙間を縫って町に浸透してゆく。
 時報の時間だった。
 車から流れるラジオはこの一瞬、それを聴く全てのドライバーを深夜二時に同期する。私たちも同じ世界に存在しているのだということを意識させる催眠術の合言葉。
 当然だけどもう終電なんてない。時限式の帰り道を塞いだところで恵まれた私たちに帰るべき場所はあるけれど、でも居場所はここにしかないのだった。
「あのさ際子まだ死にたいとか考えてるの」
 私の嫌いな優しい目だった。
 その眼差しから逃れるように私の視線は寄り道をして、交差点の信号がすべて赤一色になる瞬間を捉える。行き場のない赤色。
「浅未はさ、」はぐらかすみたいに曖昧に笑う。
「浅未は子供の頃夜更かしする子だった? するにしてもたいがい十時くらいで親に叱られて実際眠いし寝ちゃうよねゲームでもしなけりゃ」
 つと立ち止まる浅未の気配がした。
「子供の頃はさ、零時の向こう側なんて知らなかったよね。深夜二時なんて落ちればどこまでも深くて暗い夜の底だった。でも今は」
 二人黙り込んで立ち止まると遠くの音が二人だけの空間を侵してゆく。
 
          コンビニの入店音、
 
     漏れたカーステレオ、
 
                 気怠いクラブミュージック、
 
 波のない海の無音の圧倒。
 
「でも」の先が、いつまで経っても言えなかった。
 口にすることで変わる何かが怖いのではない。浅未を傷つけることさえ私にとって本当はどうでもいい。私が恐れているのはその言葉を口にしても自分がきっと傷つかないだろうという事実で、それを認めることが、私には何よりも怖い。そんなこと私自身分かりきってしまっているのに。
「ばっかみたい」
 浅未は心底呆れたようにそう言った。
 そう言うだろうと思っていた。浅未は私なんかと比べものにならないくらい、傷つくことが上手なのだから。きっと浅未にとって私の悩みなんて屁でもない。
 私の事なんて鬱屈したサブカルにねじまげた共感で浸るだけの下品な女だと思ってるんだろう。他とは違う自分になりたい人たちが原宿あたりに集まって結局似たり寄ったりな格好をしているみたいに。初めて会ったときからずっと、浅未が私を見る目は哀れみを含んでいた。
 それは孤独を見る時の目だ。
「際子。踊らない?」
 頷いて、私たちはまた上着を羽織った。
 クラブハウスのネオンの看板が立っていた。

 


 浅未の腕は迷いなく扉を掴んで、隙間から光が漏れ出した瞬間私の瞼はひとりでに景色を細切れにした。
 乾燥した空気と煙草の煙の間をまばゆく駆け抜けてゆくシンセサイザーの音を見た。
 グロスが唇を離れるときのような後を引くもったりしたテンポと低音、酔ってもないのに頭をぐらつかせる脳の浅いところをくすぐるノイズ、かと思えば猫が無邪気に鍵盤踏んで歩くみたいな遊びも混じる。
 それは天使的な響きのようでも魘される悪夢のようでもあって、その境界の曖昧さがこの夜と深く繋がっているような気がした。
 硝子を引っ掻く爪音。
 子供の歯軋り。
 透明なエレクトロニカのレトロスペクティブ。
 耳にかかる吐息、
「ほら行くよ」
 ハッとして見上げると既に浅未は店の中にいた。音のしない厚く重いドアを閉じると緊張も詰まる。
 初めてのクラブハウスは思っていたより広くはなかった。雑誌でよく見る渋谷の大箱とはまるで違う。奥に細長い造りをしていて、左手に長いバーカウンター、右手に小さなテーブルの備え付けられたボックス席が並び、奥に少し開けたホールがあって若い男女が身体を揺らす。DJらしい人はホールの隅でテーブルに置いたMacBookと何かの機材を器用に叩きながら変幻するクラブミュージックをかけていて、レインコートみたいな派手な黄色いフードをかぶって逆光の陰の中クラクラと揺れていた。
「なんでもいいからカクテル。私たちに似合いのもの、二つね」
 浅未がどんどん奥へ進んでバーテンに話しかけたので少し慌てた。
「ここ来たことあんの」と、つい小声。
「いやクラブ自体初めてだけど。音楽いいね」
 私こそ初めてだった癖になんとなく言い出せず、曲なんてむしろ少し鳥肌が立っているくらいに私にはどんぴしゃだったのに余計なプライドが邪魔をした。代わりに曖昧に笑って、
「そうだね意外と」
 と、そこで深く透けた紅いグラスが二杯カウンターに置かれた。
 そのときじっと顔を見られたような気がしたけど、浅未みたいに慣れたふうにグラスを受け取り精一杯大人にみえる顔の角度で微笑むと、バーテンは曇ったグラスを拭く作業を始めてそもそも私たちのことなんてまるで興味がないようだった。
 私の学校でもこういう遊びを覚えた人はけっこういるらしいことを思い出し、彼らも同じように背伸びしているのかと思うと少し笑えた。
「乾杯」浅未がニヤニヤ笑って私の瞳の奥を見る。
「乾杯」
 触れるだけのキスをするみたいに、グラスがカチンと重なった。私の初めて全部がこうやって暴力的に奪われていくことで、私の浅未への愛は深められていく。
 体中に酔いが流れた。
 私たちがホールへ入っていく途中でゆっくり痺れが取れるように曲が終わり、しかし幻肢痛じみた耳鳴りはまだホールを揺らしていた。その心地よい振動を踏みにじるみたいに次の曲がかかる。いつの間にかテーブルに立つDJが入れ替わり石野卓球の出来損ないみたいな人になっている。
 浅未が私の手を取って踊り始める。腫れて赤い足、小柄で細い腕と首。髪を乱して線香花火のように小さくはじけるダンス。
 きれいだった。
 浅未から発する淡い光がホールを支配して、消え落ちそうな光だからこそ誰もが呼吸さえ躊躇われるくらいに静寂を守り、それはほんの一瞬、おそらく私だけが感じた静止だったけれど同時に私はもう一つの発光体を見たのだった。
 無粋な音が全てフロアからはじき出されたような気がした。
 逆光のなかでその髪は銀色に光り、柔く美しい鎖骨の曲線を濡らしていたのはおそらく汗だった。彼が黄色いコートのフードを下ろすその瞬間を見、それが私たちと同い歳くらいの少年だったことに驚いて、見開いた瞳が少年の火照る呼吸を捉えた。
 目が合った気がした。
 それだけで魔法が溶けてしまうような邂逅、あるいは既に零時を回っていることに気付かせる時計のアラームのような夢の破断。
 少年が私の肩先をかすめてホールを抜けると再びフロアは動き出し、
 私もまた煙の踊る風景に、紛れる。

 


 ぶるぶる振動するiPhoneを取り出して、トモダチの嘔気を文字化した羅列が埋め尽くす画面を眺めた。いいね! いいね、いいねいいねいいねいいいいすごくいいすごく気持ち悪い今の気持ち悪さを延々確認し続けるだけの作業が実は意味ないってみんな本当は気付いてるんだ。それでも病んだ言葉だけは鋭く尖らせるみたいに毎晩毎晩綺麗に磨いて、擦り切れてしまうまであと何日保つだろうかとか女の子って計算高い
 もう十数回目の電話の着信があったが、間髪入れず切った。
「ねえ」画面が知らない女の手で覆われ、顔を上げると目が合った。少し前に踊り疲れて座ったソファの隣に知らない人がやって来て、さっきからずっとその五月蠅い声をぼんやり聞きながら聞き捨てていた。
「今の電話親じゃないの出なくていいの」
 化粧と煙草の匂いで鼻が詰まる。女の名前は薫といった。
「あなたには関係ありません」
「ほーん。ていうか君たちそれ制服だよね下に着てるの」
「ち違います」iPhoneをポケットに仕舞いながら慌てて答えると、そんな私を見て薫はにやり笑う。
 もう三杯目の浅未はピンクグレープフルーツ色のカクテルを呷って、安っぽいアメリカンチェリーがその唇に触れた。
「そう、これは大人と戦うための武器なのです」
「たとえ武器でも女子高生なんてそれと同じくらい標的だよ」
 シシシと笑いながら薫はなんだか分かったみたいな顔で自分がどれだけ男の性欲のはけ口にされてきたのか急に語り始めて埼京線って痴漢多いんだよとか胸に浴びる目線がどうとか。私は灰皿にアメリカンスピリットの灰が溜まっていくのを眺めてただ笑っていた。
「でも薫さんの服こそ可愛いじゃないですか」なんて時々返す浅未の相槌にもどう反応すればいいのか分からない。
 薫はKERAとかコスプレっぽい感じのゴテゴテした装飾のフリルで肉体の輪郭を隠していて、確かに薫は愛嬌のある顔をしてて多少太って見えるのも男ウケは良さそうだし胸もでかい。
 それでも、その格好は三十路を浮き彫りにしていた。たぶん浅未はそんなこと気にもしていないだろうけれど。
「ありがとう」薫はうやうやしく頭を下げて、「まあお世辞ではよく言われるんだよねたぶん普通の人よりも。ファッション気合い入れてますってふうに見えるんだろうね」
 笑顔をやめて顔の皺を減らすと薫はなぜかむしろ急激に老け込んで見えた。少しぱさついた髪と濃い化粧のアナログ加工で盛った肌。くすんだ部分ばかりが目につく。
 チェリーの茎を咥えた浅未は自分が踏んだ地雷にも知らぬ顔で、困ったふうでもなく笑って薫の視線に応えていた。
「浅未ちゃんだっけ。あんたこそ本当に可愛い。ハーフとか?」
「です。ママがアルゼンチンの人なので」
 しれっと初耳だった。
「え、そうだったの」
「あれ言わなかったっけ」
「ないよ。知らなかった」
 つんと突くように口にした言葉が、その一瞬、薄氷のような膜に触れた気がした。あの日予備校で笑いながらボタンを引きちぎった時の目だった。
「どうでもいいでしょ誰と誰の子だとか」
 語気は変わらないままで、その凜々しい大きな瞳が、私を黙らせる。
「そうよ。うちの弟なんて私と同じ遺伝子持ってると思えないくらい美少年なんだから。国がどうとか関係ないね。良くも悪くもフェミニズム不要論も流行る時代だし人類規模で物事を捉えないと」と薫が酔った顔で言う。
「はあ」
 薫と顔を見合わせて派手に笑う浅未のその顔も、今まで一度だって見たことがなかった。予備校が同じだけで高校も違う。私の知る浅未の姿はつまるところ放課後の彼女でしかない。
 私は浅未のことをほとんど何も知らないのだった。
 二人が笑い合うなか、ふと薫の表情から笑顔がすっと消えた。
「どうでもいい。どうでもいいって、私だって言いたいよ」溜息が滲む。「何歳までが女の子でいられるの。私だってブスだってあんたたちみたいに女の子でいたいよ」
 とっくに薫の舌はもたつき始めていた。潤んだ目が化粧を滲ませ鎧を腐蝕して今にも崩れ落ちそうだ。
「……あの、水とか飲んだ方が」
「夢とかもう何もないのに。こんなに灰色なのに。毎日おっさん連中のよく分かんない領収書チェックしてまとめて管理したり隠したり、たまにお客にニコニコお茶出したりしてれば過ぎてくなかで憧れだけが昔から綺麗なまま生身の私は衰えてくんだもんな。コンビニスイーツもスーパーのお総菜も開封後はお早めにお召し上がり下さいでなけりゃすぐに腐っちゃうよ。やっぱさ女の子にも寿命があるんだって」
 きっとこの人の服は、自分自身の歳と戦うための武器なのだと思った。
 そんなふうに何か取り繕うような言葉が口をついて出かけたけれど、私たちでは何を言ってもこの人の慰めにもならないのだと思うと胃を絞るような気分になった。結局私は何も言えず、薫は沈黙に落ちてしまった。
 ずっと音楽は鳴り続けていた。けれど軽薄でスカスカな騒音未満は静寂さえ満たしてはくれない。
「ばっかみたい」茎をぺっとグラスに吐き出して浅未はいつもの口癖で、「女の子がいいなら女の子でいいのに」
「皆がそんなふうには……浅未みたいには、なれないよ。私たちにだってきっと、」
 浅未が溜息をついて、私の言葉は押し留められそうになる。それだけで嘔気と嗚咽の区別がつかなくなりそうだったけれど、
 女の子には寿命があるように、
 私たちの時間にもきっと終わりがあるように、
「もしも死ぬまでの残り時間がこの夜限りだったとしたら。朝になれば私たちが消えてしまう運命なのだとしたら」
 それでも、私はもしもの話にもしもを重ねて願うことを止められなかった。
「戦争が始まるのだとしたら、」
「みんなあっという間に死んでしまうのだとしたら、」
「小さな苦しみが大きな苦しみに上書きされるみたいに、」
「私たちのどんなに切実で小さな苦しみもそれどころじゃなくなるのだとしたら、」
「いつか私たちはそれさえ、忘れちゃうのかな」
 絞り出すような言葉は吐き出す息が続かなくなるごとに断ち切られて、たくさんの見えない膜で塞がれて呼吸をすることさえ不自由なこの人生に、醜くてはがゆい身体に、引き裂かれながらも私は囁く。
 曲が途切れて、酔いの醒めるような静寂が広がった。
 話し声すら止んだその一瞬、
「かわいそうだね」と、浅未は心底同情するように「それでも、傷つけば傷つくほど弱さ振りかざして便利に生きられる世の中でよかったね」
 そう吐き捨てた。
 私を見下し慈しむようなその満面の笑みに、いつもみたいに私が聞きたくない言葉で抉ってくれる浅未に、不思議と愛おしさと安心を覚えて、胸がつかえた。
 浅未の背後に人が立っていた。黄色いコートの影がある。
「姉ちゃん!」
 その声のするほうを見上げて、目が合うのはこれが二度目だった。
 視線はすぐに逸らされて、酔いつぶれかけた薫の肩をゆする彼の顔立ちはホールの光を浴びずとも綺麗で、はっきりした目つきの鋭さと猫のように柔らかいアッシュグレーの髪はコートの派手な黄色にも劣らず異彩を放って吸い込まれそうなほど際立っていた。
 彼に身体を起こされながら薫は、
「おー渚。JKがあーたのプレイを聴きに来てくれたぜ」
「んだよ、」
 渚、と呼ばれた少年はぶっきらぼうな眼差しで、彼女を見つけた。
 浅未が我を失ったように突然立ち上がり、彼女もまた彼のことを見ていたのだ。浅未の震える指先が掌に爪を立て、スカートの後ろできつく握られていた。口を開いて何か言おうとしているのでもなく、ただ発作のような呼吸だけが小さく漏れていた。
 これほどまでに取り乱す浅未を私は見たことがなかった。
「あれもしかして知り合い?」
 薫が尋ねると渚はにやりと口元を歪めて微笑んだ。
「おめー何してんだよこんなとこで。今日も学校サボってた癖に。なあ朝倉」浅未の名前。
 ぎりりと浅未ににじり寄り睨め付けると、浅未は身体をこわばらせて、目には涙を浮かべて、「あ、ああ、あ、」
 私は何も言えなかった。
 新しいDJが曲をかけはじめると渚は急に振り返って大声を上げ、
「下手くそなんだよ! 止めろ!」
 こんな子供の思いつきのような戯れ言に、それでもこの空間は支配されてしまった。
 嗚咽にもならない情けない浅未の喉奥の水っぽい音だけがクラブに満ちた。
 ふと気付けば、私の目から静かに涙がこぼれ落ちていた。
「この馬鹿弟が」薫が渚の胸を小突き、それでも彼のねっとりとした笑みは消えなかった。
 浅未はグラスを掴んで振りかざし、ぶるぶると肩を震わせながらも深く長い息を吐くと、ゆっくりとその腕を下げた。怯え震えた小動物のように踵を返してテーブルを離れて、翻るスカートを乱す。
「お。また逃げんのかよ!」
 渚の声を背中に浴びながら店を飛び出していく浅未をただ呆然と見て、私は浅未が私の前でしか強くいられないのだと、その時初めて知ったのだった。
 もしも私がばちんと渚の頬を思いっきり殴ってみたら、彼はよろめいて隣のテーブルに背中から倒れ、私はそれを見下ろすことができるのだろうと考えて、私はただ立ち上がり渚を睨んで、
「曲は良かったのに」
 かわいそうなのは、浅未のほうなのに。

 


 電源は入っていたのに一度も浅未の携帯は鳴らなかった。
 家にも学校にも居場所がない浅未にとって、私と過ごす時間が唯一の居場所だったのだ。浅未にはもう、私しかいない。
 ぼんやり白んだ湾岸を走り、追いついた背中を抱きしめて、
「もうすぐ朝になっちゃうね」
「そんなの、いやだよ。もう少し、あともう少しだけ、」
 背後から私は耳打ちするような姿勢で、だから浅未が泣いているのかどうか、私には分からなかった。ただ初めて見る朝の浅未の横顔はあまりにも脆くて儚くて、鈍い空の明るさに簡単に覆われてしまった。
 この一晩の放蕩はそれ自体がもしもの話でしかなかったのだろう。あともう少しを願いながらも、それが叶わないことを最初から私たちは知っていた。
「ずるいよ、際子」
「そうだね」
「私はずっと、際子みたいに傷つくことに鈍感になりたかった」
「私だって。傷つくことに立ち向かおうとする浅未の孤高が、ずっと私の憧れだった」
 きっと私たちは二人でやっと完璧だった。この夜までは。互いに息をする方法を教え合いながら過ごしてきたのだ。
 浅未の耳元で、できるだけ声が劣化しない距離で話そうと思った。口を寄せれば浅未の髪が口に入って、噛みながらでも私は痛みを、痛みを感じないということの痛みを吐いて、
「大好きな漫画ほど何度も繰り返し読むのが怖くならない? ぐっさり深く刺さる歌ほどリピートしてなまくらになってくの怖くない? 丁寧に手洗いしてた推しの服いつの間にか面倒になって洗濯ネットで丸洗いしちゃってる自分に気付いてぞっとすることない? 大事にしまってあった絶望をSNSに垂れ流して希釈して勝手ないいねの共感で言葉が奪われていくのが気持ち悪くて吐きそうで死にたくなる夜たまにない?」
「わかんないよ、私には」
「子供の頃は零時の向こう側なんて知らなかった。でも知ってしまえば特別でもなんでもないただの今日と明日との境目で、夜の底の深さも背が伸びれば相対的に浅くなってくものだしそれは仕方ないことかもしれないよ。それでも私はいろんなことに少しずつ慣れてしまうのが、たまらなく怖いの。
 社会に出れば仕事始めれば忙しくなれば悩み事に頭使う余裕もなくなって忘れられるよってお母さんたちは言うけど翻ってそれはまさにこの苦悩のさなかにいる今はどうしたって救われないってことにならないかな? 忘れたり薄めたりして、こんな絶望でも手放したくないよ」
 傷つくことに慣れていくのが怖くて、だから私はちゃんと傷ついているんだということを確かめたくて、目に見える形で血で痣で痛みを刻み込んでいた。それすらもいつかは日常になる。
 簡単に怖さや痛みに慣れてしまえる自分が恨めしかった。
 敏感に怖さや痛みを感じてしまう浅未が羨ましかった。
「だからって、」布を裂くような柔らかな叫びが、私の胸をびりびりと震わせた。「だからって死ぬとか言わないでよ。たとえそれで楽になれるのだとしても、たとえ冗談でもそれを願うこと口にすることは悲しいことなんだよ。死ぬことでやっと価値が生まれるくらいの生なら、半額セールになってやっとダウンロードしてもらえるくらいの音楽なら、血を吐きながらでも絶望噛みながらでも今を死に続けるみたいに、私のために生きてよ」
「私そんなに強くないよ。浅未みたいに痛みちゃんと感じながら生きてくなんて普通無理だよ。戸川純岡崎京子も赤色エレジーもホントはわかんないんだよ。自意識まみれで触れる草全部腐らせてくみたいに毒振りまいて周りも自分も傷だらけになって、そんなのかっこいいじゃんか。そんなの私じゃないじゃんか。取り返しつかなくなるまで頭ぐずぐずに腐らせるだけなのが私なんだよ。私は傷つく弱ささえ武器にできないくらい、弱いの」吐き出すだけ吐き出して私はまた、叶わない願いを願うのだ。「ねえ浅未。私の孤独を孤高にしてよ」
 浅未の耳を甘く囓った。血が滲むまで歯を食い込ませると、
「痛っ」その肩が小さく跳ねた。
 それは、ただのもしもの話。ある一つの仮想的回答。
 浅未の孤高を私の暴力で傷つけようとしたのかもしれない。でも本当のところは私自身も分からない、衝動的な性的な欲求でしかないのかもしれない。
 血を舐めて唇を濡らして私は後ろから浅未の唇を奪いたかった。けれど浅未はそれには応えず、あと少しで届きそうで届かない吐息だけが触れあって、離れた。
 抱きしめた私の腕をほどいて、浅未は私と正面から向かい合う。
「問題の答え。あれは東京都内の昼間人口と夜間人口の差なんだ。ただ、それだけだよ」浅未は笑った。それはごく一般的に言えば幸福な笑顔なのだと思う。「ねえ際子、ただ生活することの途方もない凡庸に、私もきっと慣れるよ」
 そのなんでもない姿に、私が浅未の孤高を孤独に引きずり下ろしたのだろうかと思った。私を馬鹿にすることしかできない浅未が、最高に惨めで、最高に可愛かったんだよ。けれど、もうその浅未はここにはいないのだ。
 たくさん願えたはずのもしもの話が、指の間をすり抜けてゆく。
 私たちのポケットの中で震える、二つぶんの音。
 スマートフォンから警報が鳴った。
 町中のスピーカーからサイレンが流れた。
 まだ淡い朝。ニセモノの目覚ましのベルに、町は目を覚ます。
 隣の国からミサイルが打ち上がって、この町の頭上を通過するらしい。不思議なくらいに危機感も緊迫感もない、安らぎのなかで朝の汀の白く潤んだ空を見上げた。
 いつか元気に笑顔で笑っているかもしれない、弱さを武器にしないでも戦っていられる平凡を手にしているだろうことを思って、私はただ、寂しさに満たされて。
 
(13520字)

 

 

 

 

 

 

しばらく前に書いた小説を読み返すと、この頃から私はコミュニケーションを放棄して独善的な態度で、暴力的に言葉を吐くだけの日々だったなと思い出された。

この頃は大森靖子ばかり聴いていた。歌詞をしれっとそのまま引用している箇所があったりして、作品としては恥ずかしいような気もするけれど、主人公の際子はそうやって他人の言葉に依存してかろうじて支えられるというような人物でもある。それと同時に、借り物の言葉を使うことの恐怖もきっと感じている子だと思う。私自身はその頃どう感じていたか、今ではよく思い出せない。

「今は違う」というていで書き綴ってしまっているけれど、実際そこまで自分の内面に変化があったかと言えば、たぶん、そんなこともない。ただ、この小説のような一方通行の暴力でさえ今は行使せず、何もせずじっと毎日映画ばかり観て腐っている。

深夜に自分の感情もわからず言葉だけが先走るようなSNSの空気、独り言が誰かの耳にとまるでもなくすり抜けることが救いでもあって、こんな小説はネットに供養するほかないからこそ、こういう場所はありがたい。

(ソーシャルネットと)
サブカルチャーと)
少女の終わりの話でした。