鉄錆の町
創作小説。閉山した炭鉱のある寂れた町で、中学生の「私」には友達のりっちゃん、母親と祖母がいる。漠然とした町の息苦しさみたいなものを描きたかった。
一
私とりっちゃんはいつもの通学路を下校していた。片側一車線の右手と背後遠くには山の影、左手遠くにハンマーのような頭でっかちの形をしたコンクリートの塔、前方緩やかに続く下り坂の先には海、水平線。風は凪いでいたが二月の空気は冷たかった。アスファルトを叩く二人分の足音を、並列走行の自転車が追い越していった。詰め襟の黒、ヘルメットの白。「コートも着ないで、男子は元気だねえ」とりっちゃんが独特の少し間延びした声で言う。そうねえ、と私は相づちを打つ。マフラー二人は言葉少なに歩いて行く。もっと何かを話さなくてはという焦燥感が少し。
そんな気分には理由がある、沈黙にも。
私の転校が再来週に迫り、また私たちの通う中学校が来月を以て閉校になる。かつて炭鉱を中心にして賑わったこの街は閉山後、住人の流出に歯止めがきかず、私たちの学校もその中で閉じられていく流れの一つだとは教師をはじめとする大人達の言だが、子供達の前にあるのは一つの日常の唐突な終わりであって、そこにある文脈などさして重要ではないのだった。大人達は閉山した炭鉱についてあまり多くを語ろうとはしない。閉校する学校についても。いつも「その先が大事だ」なんて割り切ってしまう。そのたびに、私はそんなに器用にはなれないな、と思うのだ。
とはいえもともと都市部のほうに職場のあった父だ。これを機に引っ越しを決めたというのも当然のなりゆきだったのかもしれない。先週から荷物は箱詰めされ始め、家中がずいぶんとよそよそしく広くなった。そのさなかで私の部屋だけが取り残されたように散らかっている。床にはしわくちゃなスカートや毛玉だらけのセーター、雑誌にCDラジカセ。その乱雑な様子を見るにつけ、母はいつも「ええ加減に片付けんと、あんた。足の踏み場もない」と私を叱る。足の踏み場がないのなら勝手に部屋にあがってこなければいいのに。以前の私ならそんなことを言い返したかもしれないけれど、近頃とても怒りっぽくなった母の機嫌をあえて損ねる必要もない。私は目につくところだけ繕いやり過ごし、いつまで経っても部屋は片付かないままだ。
「ほ、ほ、ほっ」
りっちゃんの温かな呼気が私の耳をかすめて通り過ぎていく。軽やかに踵を鳴らしてスカートを揺らす足取り。潮風に撫でられて散らばる髪が、日没の逆光に象られて瞬く。そのシルエットは細く、さっきまで着ていたはずの暖かそうなコートは腕の中。
「ちょっと!」
先へ先へと駆けてゆくりっちゃんを慌てて追いかけようとしたその途端、りっちゃんは丸めたコートを宙へ放った。ばさり、風を受けて広がり落ちてくるそれを、私はすんでのところで受け止める。
「もう、いきなりどうしたの」
戸惑う私をお構いなしで、りっちゃんはただ笑う。細い腕をこすり合わせるように抱えて振り返る。
「えへへ。寒い!」
その澄んだ笑顔を見てやっと気づく。私たちに残された時間が有限なのだと、そう教えられた日から、私はずっと迷っていた。何か話さなければと思っていた。もっと話したいことがたくさんあるはずだと。ただそれが何かわからなくて、きつく巻いたマフラーに口元をうずめるだけの日々。だけど、大事なのはそんなことじゃなかったんだ。
私はいま、この瞬間が幸せだ。どんな有意義な時間も学びも覚りも、私がこうしてりっちゃんと一緒に過ごす時間には敵わない。
「春よ! はやく来いーっ」
「たくもう、ほんとばか!」
叫ぶりっちゃんに私は笑い、丸めたコートを投げ返す。りっちゃんがそれを受け止める。「ばか」と言われて膨らんだ、りっちゃんの可愛い紅い頬。ただこれだけでいいのだ。私はこの瞬間が永遠になりますようにと願いながらも、こんな日々の戯れさえこの先ずっとは続かないことを知っている。
「またね」の挨拶に、そんな思いが混じる。
坂を下って別れて一人、帰路を歩く。鳴るのは私の足音ひとつ。周囲の景色がねばつくように目端をゆっくりと流れてゆく。潰れた映画館の錆びた絵看板。煤けた風俗街の化粧臭さ。まるで空気が薄いみたいな息苦しさに、喉の奥が乾いてひりつく。潮風に凍えてしまわないよう歩き続けることにもほとほと疲れたけれど、かと言って何かに寄りかかるにはこの町はあまりにも冷たく硬い。
家の中でさえ。
母がリビングで泣いている。背中を丸めてテーブルに伏すようにして。ただいまを言わずその側を通り過ぎようとする私は、その間際小さく母が「だめ」と漏らすのを聞く。ふと気づいて見ると、床には割れた食器の破片と湯気の消えた野菜炒めが散らばっていた。肩にかけた鞄が、急に重さを増す。汗ばんだ手で持ち手を握り、私は分かりきったいつもの質問を投げる。
「またおばあちゃん?」
母は答えない。
「……食器、プラスチックのに変えようよ」
それで母は、また唸るように声を上げすすり泣く。思わず漏れそうになるため息をこらえて、私は玄関の用具入れから塵取りと箒を持ってくる。まずは破片のほうから片付けないと、と思って箒を机の下にくぐらせると、母の手が伸びて私の手をはじいた。
唖然として固まる私は、私の手を離れて倒れる箒を目で追っている。遅れてじわりと手の甲に痛み。恐る恐る見上げた母の姿は、とても細いのに大きく見える。
「そんなのは私がやる! いいからあんたは自分の部屋を片付けえ!」
耳をつんざく叫び声に、拳をテーブルに叩きつける音が重なる。それでも私は再び箒を手に、ゴミになった食事と食器を片付ける。
「あんた……」
きっと諦めたのだろう。母は崩れるように椅子の背もたれに身を預け、また続きの涙を流す。ひたすら何かに呪詛を吐く。こんな時に父がいればと思うけれど、今日も帰りは遅いだろう。隣の部屋で静かに寝息を立てる祖母を横目に、私は自分の部屋へとようやく帰る。
足元をかきわけて鞄を降ろし、シーツのよれたベッドに座る。自分でも汚いと思うような部屋だけど、そうでないと私はここが私の部屋だと確かめることもできない。それだけがこの部屋の価値だ。私が必死に守ろうとしているのは、その程度のもの。うんざりするようなこの日常に本当の逃げ場なんてなくて、それでも私は惰性の今を生きている。
「りっちゃん……」
彼女が唯一、私の寄り添える陽向。
私はりっちゃんと過ごした時間のことを思い出す。楽しかったことも悲しかったことも、すべての出来事が重なって私の胸をいっぱいにする。奥のほうからどんどん気持ちがあふれて止まない。この汚い部屋の中で、きっと今の私はいちばん不細工な顔をしているだろう。
そう簡単には片付けられない。片付けてはいけない。
ここは私にはわからない私の匂いが染み付いた、私の部屋なのだ。
二
校舎が取り壊されることになった、と噂が広まる。そしてそれは、ホームルームで担任の先生が「最後の大掃除はやらない」と漏らしたことで、じゃああの噂は本当だったのか、ということになる。最後に自分たちで掃除できないのって寂しいね、なんてりっちゃんは言うけれど、だいたいの連中はただ面倒が押し付けられずに済んだと安心しているようだった。大掃除をやらないってだけで校舎が取り壊されると決めつけるのは早計ではないかと思うのだけれど、先生は生徒たちの勝手な解釈を訂正せずにただ「しまった」という顔でその様子を見ていたので本当かもしれない。隠す必要があるのかどうかも疑問だけれども。
いずれにしても、親の都合で他のみんなよりも一足先に転校することになっていた私には関係のない話。浮足立つクラスメイトたちのあいだで、私とりっちゃんは静かに視線を交わして微笑み合うのだった。
私にとって、これが最後の日。
先生やクラスメイトたちとの別れの挨拶もそこそこに、いつもの坂道を下る。空は灰色がかって暗く、指先が痛むほど冷え込んでいた。隣にはりっちゃんがいて、自分の吐いた息の白さを眺めている。ありふれた日々を象徴するかのような、代わり映えしない景色の続く長い坂道を、私たちは惜しみながらゆっくりと歩く。
寒いね、髪が凍りそう、ほら息がこんなに白い、これ顕微鏡で見ると綺麗な模様になってるんだって、へえ、じゃあかき氷はどうなの、かき氷もきっと綺麗、どうして、だって冷たくてあんなに美味しいもん、なんて。いつもと変わらない他愛ない会話がただ続き、あっという間に下り坂が終わろうとする。
別れの予感が膨らんでゆく。
「あ。あー」
突然りっちゃんが緊張感のない声を上げ、振り返って私を見つめる。りっちゃんはたまに間の抜けたことをするから微笑ましいけれど、今、私はここで別れを切り出されるのかもという不安で、身体が硬くなる。しかしすぐに私も気づく。
「ねえ。上履きは持って帰ってきたあ?」
「あ」
忘れていた。
上履きだけではない。置きっぱなしの習字道具や裁縫箱も教室のなかだ。いつもの癖で、また明日も同じ日常が続くみたいな気持ちで、鞄だけを持ち帰ってきていた。どうしよう、今からでも取りに戻ろうかと思案する。少し困り顔でこちらを向くりっちゃんと、その先に見えている枝道。私はまだ、さよならをしたくない。だから私は少し身勝手な思いつきを口にしようと、
「ねえ。今から一緒に」
その言葉は、りっちゃんの眠たげなあくびと重なって途切れる。さらにりっちゃんは眠そうに続けて、
「まあ、でも別に必要ないものだったら取りに戻らなくてもいいんじゃないかな? だってほら、どうせ掃除とか片付けもしないわけだし。取り壊されちゃうんだから」
だから、なんだって言うのだろう。
私は固まる。確かに、いずれにしても私の置き忘れたその荷物はそれほど大切なものではない。だけど問題はそこじゃない。ほんのついさっきまで、校舎が取り壊されることにも、自分たちで掃除ができないことにも、「寂しいね」なんて漏らしていたのに。私の綻んだ口元が引きつる。
凪いだ潮風。遠くを走るトラックの音さえ消えると、私たちの間に横たわる空白は、無限に引き伸ばされて真空になる。
りっちゃんはいつも通りで、何もおかしなところなんてない。とろんとした一重まぶたの垂れ目に柔らかな肌、変わらない笑顔とおっとりしたしゃべり方。面倒なことが嫌いで眠ることが大好きなりっちゃん。
だけど今日くらいはせめて、いつも通りでいてほしくなかった。
えへへと笑うりっちゃんが立ち尽くす私に抱きついて、頬に頬をすりつける。ありがたやありがたや、なんて念仏みたいにつぶやいている。とっさに抵抗できない私の身体をりっちゃんは滑るように触れる。
「ちょっと、セクハラっ!」
引きはがそうとして肩を掴むと、りっちゃんはぽつり、
「ごめんね」
自然と腕から力が抜ける。りっちゃんが泣きそうになっているのが声の震えでわかる。
「私、ふたりで過ごした時間は絶対に忘れないから。会えなくなるのは悲しいし寂しいけど、でも、私はこの思い出だけでこの先もずっと頑張れると思う。……あはは、ごめん。なんか泣けてきちゃった」
そんなありふれた別れの言葉でさえ、私は言えないのに。
「でも、いつまでも悲しんでばかりいられないもんね」
りっちゃんはどんどん言葉を重ねて、ただ悲しいだけの私を置き去りにする。お願いだから、そんなにうまく気持ちを整理しないで。もっとぐちゃぐちゃのままでいてよ。この先のことなんて考えなくていい、ただ今だけを見て。ここにいる私を。
私にはりっちゃんが必要なんだよ。
そうやって私が抱き返そうとした寸前に、りっちゃんが私の胸から身体を離す。ほんの一筋、涙の跡が残る頬。それでも、もう泣いてはいなかった。
だから、私は、
「あのね」
りっちゃんは首を傾げて私の二の句を待つ。その真っ直ぐな瞳を、私の色で汚そう。
「私のお母さん、お祖母ちゃんを殺したの」
「え」
目の前の笑顔はそのまま固まって動かない。指先を震わせながら、それでも、「嘘、冗談だよ」と続ける私を期待して待っている。そんなりっちゃんの様子に、私は内心から漏れ出す笑みを堪えられない。私は最低だ。あはは! 私はりっちゃんに背を向けて、重く落ちるような空を見上げる。
「お祖母ちゃん呆けちゃってからお母さんがつきっきりでさ。お祖母ちゃんっていっても、お母さんからすれば夫の母親なわけで。なんで私がこんなこと……って気持ちが積もり積もるのも想像できなくはないっていうか」
「うそ」
りっちゃんの言葉は不安げで、信じたくないものでも見ているみたいに揺れ動く。
「そんなの、うそだよ」
雪が降る。
私の焦点のその向こうから、氷の粒がいくつも浮かぶ。私は時を忘れてその穏やかな空気の流れに見入る。髪にかかるきめ細かなかき氷のせいだろうか、なんだか急に頭が冷めて、微笑みが消える。
こんなのはきっと、ありふれた話。これが本当だったら、なんだっていうの?
「なーんて。嘘、冗談だよ」
振り返って、私はおどける。さっきまでの硬直がまるでなかったかのように、りっちゃんの笑みが雪を溶かす。
「なんだ。よかったあ」
ただ無邪気に、陽向のように。それだけで、私は別れたくない気持ちを諦めてしまえた。
「あはは、ごみんごみん。我ながら悪趣味でしたな。昨日の夜ミステリ小説読んだせいかな」
「もう、影響受けすぎだよ」
「でも面白いぞミステリ。りっちゃんも読めばいいのに」
「遠慮します」
手を上げて腰を折るしぐさ。うわべだけがいつもの会話に戻り、私たちの思いは取り残されたまま。
「それじゃ。ばいばいだね」
その言葉に私は名残惜しげな表情を作り、「またね」ではない同じ言葉を返す。
「ばいばい」
そのまま私を置いて先へ先へと進むりっちゃんは枝道に入り、やがて姿を消した。一度も振り返ることなく。
残された私はそれほど悲しみを感じていなくて、そのことがほんのちょっぴり悲しい。ああ、私たちが過ごした時間はこんなにもあっさりと思い出に変わってしまうのか。結局のところ、そこだけは私もりっちゃんとそれほど変わらないのだろう。
見下ろした坂道を、潮風で雪が吹き上がる。その様子を眺めながら私は、学校に置き忘れた上履きのことを考えていた。
三
町へ降りた頃にはすでにそぼ降る雪も深くなり、吹雪とはいかないまでも、数メートル先さえ不確かなほどに視界を白く染めていた。分厚いコートは水を吸って重くなり、爪先から浸水したローファーは歩くたびに不快な音を立てる。かかとがとにかく痛くて、靴ずれができていないか気がかりだ。
いつもの帰り道とは違う、屋根のある道を選んで帰ろうとアーケード商店街へ寄ると、私と同じように雪宿りの人々が大勢立ち尽くしていた。いつになく賑やかで、浮足立ちざわつく空気。嫌気が差した私は、結局いつもの道へと折り返すのだった。
町のはずれで、犬が寒さに鳴き声を上げるのを聞いた。子どもたちは厚く積もる雪を期待して雪だるまを作ろうと画策し、新聞配達の原付がエンストを起こして立ち往生していた。
結局、私は置き忘れた荷物を取りに戻らなかった。なんだかどうでも良くなってしまって、だから荷物は一つだけ。それでも十分すぎるほど重い。そんな通学鞄をただ一つ提げ、私はひた歩く。
足の痛みをかばいながらアパートの階段を登り、滑りそうになって手すりをつかむ。焼けるように冷たいけれど、もう痛みは感じなかった。
ドアノブに手を伸ばした瞬間、声がした。
「ええ加減にしてください!」
そして、がたんと何かが倒れる音。立ち止まったまま私は動けなくなる。
「私の料理の何が気に入らんの! お願いやから食べてください! そんなに嫌なんやったら一人で勝手に餓死してくれればええやんか!」
かすれた高い声で叫ぶこの声は母だ。家の中で暴れている気配がする。こんなふうにヒステリーに陥った母はもはや手がつけられない。見境なく周囲のものを倒しては壊し、包丁を振り回す。いつもは近くにいる誰かが押さえつけ宥めてやっと落ち着かせるそれを、このまま放っておけば、どうなるだろう。
ほら。やっぱり、ありふれた話。
「ほら食べ! 今までゴミにしてきたぶん全部飲み込んでえや!」
祖母の声だけが聞こえない。もうそれすらも、どうでも良かった。目を閉じて、耳をふさいで、このまま帰らずにどこかへ行ってしまおうかと思った。ずっとこんな町にもいられないけれど、引っ越したところで別段何が変わるわけでもないだろう。いずれにしても、このちぐはぐな家族からは逃げられないのだから。
だけど今、ふと思う。ここで祖母が終われば、何かが変わるかもしれない。こんな自分の昏い考えがほんの少しだけ怖くもあるけれど、ずっとこんな場所で生きていれば誰だって正しいばかりではいられまい。
そうだ。だから、これは仕方のないこと。
触れたドアノブから手を離して後ずさろうとした時、どたんと人の倒れるような音に紛れ、ふたつ隣の部屋の人が扉を開けて顔を出す。ずぶ濡れで扉の前に立ち尽くす私を見て驚いたのか、戸惑ったような、怯えたような顔で私に会釈を送って、
「あの、これは」
きっと何が起こっているのか気付いているのだろう。少し前、隣の部屋から引っ越していった人たちも、おそらく。
「うるさくしてすみません。なんでもありませんから」
私は深く頭を下げて、そう言った。あくまで毅然と、弱さを見せないように振る舞う。
頭を下げ、濡れた髪をこぼしながら私は思う。そう、こんなのはなんでもないことで、ありふれた出来事にすぎない。だったら私が逃げる理由はどこにあるというのだろう?
私はもう一度ドアノブを握り、ああそうだ、と振り返る。
「それと、今まで長いあいだ、お世話になりました」
住人は拍子抜けした顔で小さく「はあ」と呟き、そして部屋に戻っていった。
浅く呼吸をひとつ置き、瞼を深く閉ざしたまま、私は玄関を開けた。
母の叫びは未だ続いている。私の帰りには気付いていないらしい。私はゆっくりと瞼を開き、その光景を目の当たりにした。机は倒れ、椅子が折れて散らばっている。そしてこの前と同じように、床にはいくつもの冷めた料理。くわいの炊き込みにぜんまいのお浸しや和え物、しじみ汁、里芋の煮っころがし、それらはことごとく元気な頃の祖母の大好物だった。
私は靴を履いたまま部屋にあがり、リビングを抜ける。その隣の祖母の部屋に、ふたりがいた。ベッドから転げ落ちて弱々しくもがく祖母と、その喉に手を突っ込むようにして自分の料理を食べさせる母親の姿が、私にはどうしようもなく情けなく思えた。
私は考えるまでもなく母親の腕を掴み、祖母から引き剥がす。
「あんた、何よ! 止めんといて!」
「だめだよ。このままだと、お祖母ちゃんが死んじゃう」
祖母は咽ることもできず、苦しそうに唸る。かなり危険な状態だと、素人目にもわかった。
「あんな役立たず殺して何があかんのや!」
我を失った母親の頬を、私は思いきり打った。それ以上は聞きたくなかったし、それに、これ以上いい方法が思いつかなかった。
「だめなものはだめなんだよ。人を殺すのは、よくないことだから」
心にもない言葉が、口をついて出た。娘に初めて手を上げられた母はきっと痛みよりも驚きが勝り、血の気が引いたようだった。私は倒れる祖母を横目にリビングへ出て、救急車を呼ぶ。電話が終わると、恨めしげに母が言う。
「あんた。そんな知ったような口利いて。あんたかてほんまは、あんな人おらんかったらええって思てるんやろが」
私は答えずに、部屋に戻る。本当に私が考えていることなんて、どこにもないと思った。
不器用な私はさっきみたいに、もっともらしいことを言って、もっともらしい振る舞いをするのが一番楽なのだ。だから、ここに私はいない。自分の今も未来のことも、考えるだけでだるくなる。
私はコートを脱ぎ捨て、この汚い部屋も片付けようと思う。引っ越してからもこまめに整頓を続けよう。だけど今日はとにかく疲れた。私は崩れるように壁にもたれて座り、今になってやっとローファーを履いたままでいることを思い出す。水の入ったそれを脱ぎ、色移りしたソックスをゆっくりとずらしながら、私は深く瞼を閉ざす。
指でそっと触れて、確かめる。少し腫れた靴ずれの痛みだけが私をここに縫い付けて、完全にはいなくなれない私はやっぱり不器用なのだろう。
(8129字)
2016年6月14日 第2稿