破倫館

倫理的人生

物語はいかにして充足しうるか?――矢部嵩『〔少女庭国〕』における服従の論理、オタクの欲望、観測者不在の百合

 膨大な数の物語を消費し続け、それでも満たされない。Twitterアカウントを新規作成するたび「いま起きていることを見つけよう」というメッセージの――まさにその「いま」によって自我が輪切りにされてゆくことの、過去を切断してゆくことの――無意味さに耐えられない。飼い慣らされた快楽のままにガチャは無限に回されて、指先はスマートフォンの画面に同じ形をなぞり続ける。

 これは、そんな虚無的な欲望の果てに、消費される物語群-シミュラークルの犠牲になった"少女たち"の幻視である。

 永遠に終わらせることのできない〔物語〕に囚われている、そんなあなたたちの孤独へ。

 講堂へ続く狭い通路を歩いていた卒業生は気が付くと暗い部屋に寝ていた。部屋は四角く石造りだった。部屋には二枚、ドアがあり、内一方には貼り紙がしてあった。

 卒業生各位。下記の通り卒業試験を実施する。“ドアの開けられた部屋の数をnとし死んだ卒業生の人数をmとする時、n‐m=1とせよ。時間は無制限とする”


 貼り紙を熟読した彼女はドアを開け、隣室に寝ている女子を認めるとこれを殺害した。

 
 〔少女庭国〕は、そんな無数の"女子"たちによって構成された小説である。

 けれどこれは、あなたたちの孤独には決して寄り添わない。

 

目次

 

 

 突然少女達の前に「ルール」が提示され、それに則って殺し合いをさせられる――いわゆるバトルロワイアル系(デスゲームもの)と呼ばれる要素を含む作品になっているが、『〔少女庭国〕』がその枠内に小さく収まるのは、序盤のごく数十ページにわたる、第一部のみである。

 あなたは二部構成のこの小説を全て読み終えたとき、なるほどこれは確かにSFだと納得することができるだろう。

 作者である矢部嵩日本ホラー小説大賞を『紗央里ちゃんの家』で受賞しデビュー、以降も角川ホラー文庫にて新作を発表している小説家である。単行本化されているのは4作のみで、そのなかでも『〔少女庭国〕』は唯一ハヤカワSFシリーズJコレクションというレーベルから刊行されている。

 なお、本稿において取り上げる作品のいくつかについては重大なネタバレを含むことを予告しておく。それは『〔少女庭国〕』についても例外ではない。とりわけ004では結末に触れており、未読の方にとっては読書体験を大幅に損なう可能性があることをご了承願いたい。

※2018/12/15現在、Kindle版が早川書房・国内作家セールで半額になっています。紙の本では手に入りにくくなっている作品なので、この機会にぜひ。

[2019/07/02 追記]『〔少女庭国〕』文庫化おめでとうございます! 若干加筆・修正がなされているらしいので、これを機にまた読み返そうと思います。ありがとう早川書房……。

 

001/少女庭国――"卒業"できない少女たちの箱庭

 第一部「少女庭国」では、中学の卒業式を控えた少女・仁科羊歯子が「無限に部屋が直列にならんだ空間」で目を醒まし、各部屋に一人ずつ眠る少女たちと「卒業試験」について検討した結果、羊歯子だけが生き残り、"卒業"の条件を満たすまでが描かれる。

 *

 ふと目覚めた羊歯子は白い石の壁に囲まれた部屋を確かめるが、自分がそこに至った経緯を全く思い出せない。制服と胸元に添えた花から、卒業式へ向かう着の身着のまま眠っていたことがわかる。部屋には窓がなく、前後の壁に向かい合うような形で扉がついているだけ。またドアノブはその一方にのみついており、部屋から出るには実質そこを通るしか選択肢がないわけだ。そして、その扉には「卒業試験」と称した貼り紙がある。それは要するに一人を残して他は死亡せよという指示のようだが、まともに鵜呑みにするわけにもいかず、羊歯子は扉を開く――

 ――すると、そこにはもう一つの同じつくりをした部屋があり、そしてもう一人の少女が眠っていた

 このような導入から、まずは二人の少女が状況について検討を始め、石の空間を探索しようと試みるが、じきに断念してしまう。まったく同じつくりの部屋が無数に続いていることが判明し、終わりが見えない以上どこかで断念する必要があるというわけだ。また「卒業試験」を真に受けるなら、ドアを開けるごとに死ぬべき卒業生の数が増えてしまうことにもなってしまう。

 かくして13人にまで増えてしまった少女たちは、新たに次の部屋へと進むわけにもいかず、一方で殺し合いをすることも是とせず、仕方なくパーティーに興じる。石の部屋がずっと続く空間の違和感や、同じ学校の卒業生であるにもかかわらず全員が初対面であるという奇妙な状況、それらについて積極的に謎解きがなされることもないまま――その数日続く女子会の狂乱のなかで、やがて少女たちはじきに飢餓という現実的な問題に直面する。一人目の餓死者が出るのをきっかけにして「投票」が行われることになり、羊歯子を残して全員が合意のもと死亡する。

 羊歯子がその後どうなったのか、明かされることはない。

*

 「え? これで終わり?」というのが正直な感想かもしれない。それでも本を閉じるにはまだ早い。なにせ、これはまだ全体の四分の一にすぎず、第二部「少女庭国補遺」によって初めてこの小説の目論見が露わになるからだ。

 ここで『〔少女庭国〕』が二部構成であるという事実が、とても奇妙なものであることがわかる。仁科羊歯子の物語は、少なくともそこで呈示されたルールにおいては決着がついたはずである。では、この先に続く第二部「少女庭国補遺」ではいったい何が描かれるのか?

 "補遺"に入ると、これが「陳腐なバトロワもの」であることに自覚的な、一種のミスリードとして機能していたことがすぐに分かる。少女たちに突きつけられた「卒業」という言葉の意味も、単なる閉鎖空間からの脱出を指すだけのものではないことが見えてくるのだ。

 

" n - m = 1 とせよ。"

 ここで本題に入る前に、このルール=卒業試験と称する貼り紙の文面を念のためもう一度確認しておくところから始めよう。これが示すところの意味はとても単純なのだが、表現がやや屈折しているために分かりづらいところがある。ここは必要なければ読み飛ばしてもらっても構わない。

ドアの開けられた部屋の数をnとし死んだ卒業生の人数をmとする時、n‐m=1とせよ。時間は無制限とする”

 さも数学の問題文のような体裁をとっているものの、" n - m = 1 とせよ"という言い回しに違和感を覚える。この違和感の正体は、この文面が「この数式を解け」ではなく「現実の状況がこの数式に当てはまるように実行せよ」と指示しているところにある。ではこの数式はいったい何を表しているのか?

 ここにあるのは直列に部屋が無限につづく空間であり、各部屋に1人の卒業生が眠っている。ドアを一つ開けることで二つの部屋がつながり、2人の卒業生がそこに存在することになる。ドアを12回開けると、開かれた部屋は13部屋、卒業生の数も13人になる。

 重要なのは、ドアの開けられた部屋の数nに代入できるのは0または2以上の自然数であるという点だ。ドアを一つも開けなければ「ドアの開けられた部屋の数」はゼロに、ドアを一つ開ければ二部屋がつながるため「ドアの開けられた部屋の数」は2になる。m=-1 を実行できない以上、n=0 の場合は卒業条件から必然的に除外される。「ドアの開けられた部屋の数」という表現がここで巧妙に作用するのだ。

 つまり、この状況でn - m = 1を満たすためにはドアの開けられた部屋の数 n ≧ 2 かつ死んだ卒業生の数 m ≧ 1 となる必要がある。雑に言えばこの貼り紙は「つまり殺し合いとかしろってことでしょ。一人だけ生きて外出れますよって」(p.26)というように読み替えることができる。 

 

002/少女庭国補遺――"バトロワ系"の構造的転覆

 この小説は二部構成からなり、その神髄は第二部「少女庭国補遺」にある。

 第一部とは異なり、第二部では無数の少女らによる無数の断章によって構成される。 第一部の仁科羊歯子は当然のように現れないし、「卒業試験」をクリアしたその後について描かれることもない。また、それらのほとんどは三行程度の記述で終わってしまうもので、以下のような形式による。

  一 〔安野都市子〕

 講堂へ続く狭い通路を歩いていた安野都市子は気が付くと暗い部屋に寝ていた。部屋は四角く石造りだった。部屋には二枚ドアがあり、内一方には貼り紙がしてあった。

 貼り紙を熟読した都市子はドアを開け、隣室に寝ている女子を認めるとこれを殺害した。

 

  二 〔奥井雁子〕…

 いきなり現れた安野都市子の話はこれだけで終わってしまい、第二、第三、……の少女の物語が後に続く。

 中にはまるまる第一部と同じような経過・結末を辿る話もあれば、それらとまったく異なり、無限に広がる空間内で数千の少女らによる文明・少女帝国が築かれることもある。少女らは「少女」という無限のリソースがあることに気付き、身につけていた食料、偶然付着していた植物の種子、文庫本などを利用する。しかしその割合は数千という少女を生かすためには圧倒的に少ない。そのため、次第に少女そのものを食料としたり、また才のある者は「小説家」となり、民衆に貴重な娯楽を提供する高位の階級についたりもする。

 このように文明の発達、人類の歴史をなぞるかのようなエピソードがあると、そこに紙幅が費やされることになる(こうした部分もよく練られており、それだけで充分に刺激的ではある)。冒頭で定義されたルールはどこへ行ったのかと思うような逸脱ぶりである。

 つまりここでは、少女が箱庭に閉じ込められて殺し合うような物語をその内側から批判しひっくり返すような"アンチ・バトルロワイアル系"とも言うべき構造をもっていて、そうした構造のなか描かれたのはいかにして少女たちが共存しうるかという問題であり、それは本来卒業するはずだった「学校」における社会と、石の部屋を拓いてつくられる「少女帝国」での社会に通底して回帰する。しかしそれは、小説としてのていをなすために外からあてがわれたテーマという感がしなくもない。

  というのも、どうやらこの小説に描かれている空間は、純粋な意味で無限の広がりをもっているらしいのである。さながらプログラム上の仮想空間においてそう定義されたかように。作中の人物もそうした可能性について言及する台詞がある。

「ルールがあるかは判らないけど無限に舞台と人員がいて遙か遠景からこの場所を眺めてれば、様々な殺し合いのお話ならお話がゲームならゲームが種々まるで自動的に生成されて実行されていくような景色がきっと見えるはずなんだ。すぐ終わるものもあれば話が膨らむ場合もある。行動が進歩したり退歩したり。道逸れたり無様立ち枯れたり。シチュエーションだけ作って最初だけ手を入れて、あとは窓とかディスプレイとか見られる媒体があれば何もせずともぼんやり眺めてられる。」

 無数の少女たちは壁を掘削することを思いつき実行するものの、そのいずれもが出口を発見することはできない。また、扉を可能な限り開いて進んでみても、振り返ると寸分の狂いもない直線上に並んだ部屋を確かめることができる。言うまでもないことだが、現実の地上にそのような建物を作り上げることは不可能だろう。神様でもない限り。

 思うにこの作品の本質は、「物語のために作られた世界」で生まれた無限の少女たちが永遠にそこから抜け出せることなく見かけ上オートマチックに行動し、殺し合い時には慰め合うさまを言わずもがな作者が観察・記述している――そこには面白い人生と面白くない人生とが明確に区別されていて、ここでいうところの面白い人生というのは「非合理的な行為」を内包するものに他ならない――そしてこれは小説なのだし、小説として面白くなるものを書くのは当然だということだ。

 登場人物の次の台詞はそのままこの「思考実験」に対する感想として捉えることもできる。

「最低限人が出てきて最後死ぬならストーリーが出来てしまうからね。出来はともかくにも。若い子がいて閉じこめられて、足りない何かを欲しがって行動するなら自然としょうもないお話が流れてく、のかな?と思ってたんだけど、んな簡単にはいかないという結論になった

  しかし、 それらすべてのアンチ・バトロワ系的なエピソード群も最終的には破綻を来たし、そのルールに取り込まれる形で未消化な結末を迎えてゆく。

 

003/"欲望するわたしたち"の物語

 一般的に、物語-登場人物の対立において「バトロワ系」の物語が人物を服従させるという極端な作品構造は、登場人物の欲望を露骨に描出するとともに、読者の快楽主義を――もっと言えば「物語に服従させられる人物を欲望する読者」を前景化するものでもある。ゆえにこのジャンルそのものが必然的にメタフィクショナルなものとなりやすい。実際、登場人物たちに強制的にルールを課し、それを眺めて楽しむ者たちといったような存在が作中で描かれることも多い。

 バトロワ系に限らず、こうした読者の欲望に取り込まれ、その支配下に置かれた作品は他にも多数存在している。欲望のままに無数に消費されてきたそれらの物語群のなかで、登場人物たちは軽薄な幸福を与えられ、またあるときには軽薄な苦痛を強いられてきた。しかし読者はそんな登場人物たちに表面的には共感を覚えながらも、やがては再びそれらの物語を欲し続け、永遠に満たされることはない。こうして欲望の奴隷制度は続く。

 そうしたバトロワ系の構造を含みながらも「卒業できない少女たち」を無限に切り捨てていく〔少女庭国〕は非常に挑発的だ。ここにおいて幻視される「消費される物語群-シミュラークルの犠牲になった少女たち」は、それらの元凶であるはずの「欲望することから卒業できない読者たち」とどこか面影を重ねながら、無限に続いてゆく扉によって切断され続けることになる。

 ところでアニメの歴史は「オタクの欲望」の気持ち悪さに対して、とても自覚的なものだった。ここでいったん〔少女庭国〕から離れて、いくつかの作品を参照しながら、そういった欲望に対する作品の態度を再確認していこうと思う。

 

1/欲望を否定する『ビューティフル・ドリーマー』、絶望する『エヴァ

 まず事件としてわかりやすいのが『うる星やつら』だ。高橋留美子によるこのギャグ漫画は、ただただスラップスティックなドタバタ騒ぎが繰り返し続くだけの日常――ただしその盛り上がりは、ヒロインであるラムの告白を主人公の諸星あたるが拒み続けるという構造によってピークに達することがない――を、あくまでポジティブに描いたものだった。しかし、押井守監督による劇場版『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(1984)においては、原作において前提となっているその構造を否定する。牧歌的なドタバタが永遠に続くラブコメに対するアンチテーゼとなっているのだ。

 冒頭ではいつも通りのギャグの応酬が描かれるのだが、ふと気がつくとあたる達は文化祭前日を延々繰り返している……というところから物語は動き出し、ラストではその永遠に変わらないスラップスティック喜劇が少女(ラム≒高橋留美子≒観客)のたわいない夢や欲望であることを、残酷にも暴き出してゆくことになる。

 最後の一連のセリフなどは、押井守による原作への露骨な批判のようにも思える。

「おい。またやってるぜあの二人」

「まったくあいつらには進歩とか成長というものがからっきしないからな。一生やっとれ」

「ほんま、あの人らと付き合うのは並大抵のことやおまへんで」

 しかしこのあまりにも露骨な批判は、そういった欲望を抱かずにはいらない人たちに対する誠実な応答ではないようにも思う。ここにおいて表出されているのは、オタクの欲望に対する素朴な嫌悪感、拒否感、侮蔑、といった感情にすぎない。「一生やっとれ」の台詞に至ってはただ一方的な諦念が表出している。そのような態度の弊害として、映画の中ではラムが「単なる夢見る少女」として矮小化されて描かれ、主体性の薄いキャラクターと化してしまった。

*

 それらの感情がより露骨な形で登場したのが、庵野秀明監督によるTVアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』(1995-1996)だ。こちらは強烈なエゴと俗な欲望を抱えた少年少女を主体にして描き、とりわけ主人公のシンジがそうした自身の欲望に対して自覚的であることが「逃げちゃダメだ」という自責に表れている。父親への畏怖と母親の不在のなかで、少年は人類のために戦うというかりそめの役割を与えられるものの、しかしその彼が乗り込む「エヴァ」こそが母親の魂のようなものを宿したものだったのだ。つまりは子宮と羊水を模したようなコクピットも、臍の緒じみた電源ケーブルというメタファーも、戦闘行為そのものが胎内回帰願望の表れであるということを露骨に現前させる。逃げ場のない袋小路で呼吸困難に陥るように、ただ疲弊するばかりの戦闘のなかで、少年少女は際限なく膨らむ自意識と欲望の自重に耐えられなくなってゆく。

 そうした現実逃避としての母/女への欲望が、複雑にねじれた形で幾度もなく反復される。母性としてのエヴァも時に暴走し敵を食べ殺してしまうし、母のクローンであるクラスメイトに思いを寄せたりもする。また主人公と同じように愛情を感じられないまま育ったヒロインまでもが、『THE END OF EVANGELION』の最後では主人公に対して「気持ち悪い」と吐き捨てて拒絶してしまう。『ビューティフル・ドリーマー』とは対称的に『エヴァ』は欲望する人々を主体に描いたが、それにもかかわらず徹底的に露悪的にその様態を否定し続けるのだ。まるで作者が作品を通して自傷行為に浸っているかのようですらある。

*

 これら二つの作品はいずれも、作品外部から向けられる欲望のまなざしをそのまま作品内に仮想し、そのうえで拒絶するという構造をもっている。そこでなされる素朴な拒絶は、結局のところ欲望の原因である何らかの欠如について、なんの解決策も与えてはくれない。ただただ得体の知れない実存的な欠如が浮き彫りにされ、宙吊りにされたまま残されているのである。

 

2/欲望に寄り添う物語たち:『ウテナ』以降

 そうした実存的欠如を描いた作品群はアポリアに陥り、ただその様態を否定したまま立ち尽くす。安易な解決を与えなかったからこそそれらは歴史的な傑作になりえたという一面もあるかもしれないが、しかしそれ以降、この欲望の問題系に真正面から向かい合い結論を出す作品も出現してきた。

 脚本家の榎戸洋司などはその疾駆として、『少女革命ウテナ』(1997)においてはまさに"王子さまの物語"に囚われた一人の少女の欲望を「閉ざされた世界(=物語)からの脱出」というテーマで鮮やかに描出して見せた。「お姫さまを救うことで憧れの王子さまになれる」という論理が、終盤に「救うべきお姫さま=魔女」であることが明らかになることで一度アポリアに陥り、"王子さまの物語"のシステムを作り上げていた世界そのものの崩壊という形で表現される。しかしそこでただ虚構を拒むのではなく、そのプロセスを経ることで初めてウテナ/アンシーは実存としての生を――ひとりの人間として生きる力を獲得するのである。

 こうした文脈で語るべき作品は、現在では他にもいくらでも挙げられるだろう。詳細は割愛するが、同じく榎戸脚本の『トップをねらえ2!*1や、『中二病でも恋がしたい!*2、『劇場版魔法少女まどか☆マギカ [新編]叛逆の物語』*3、『たまこラブストーリー*4などにおいても全く別のアプローチから問題を照射している。この流れのなかで、2018年現在にもまだまだ新しい感性の作品が誕生しているというのは興味深い事実だ。

 そのなかで私が注目しているのが『SSSS.GRIDMAN』、そして『ANEMONE/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』である。

 敢えてこれ以上個別の作品論を導入する必要もないかもしれないが、私個人の事情としておそらく他に語る機会もないと思われるし、また「現代のオタク」の感性を取りこぼさないためには非常に重要な作品でもあるので、もう少しお付き合い願いたい。

 

3/欲望の問題系の今日的射程①『SSSS.GRIDMAN』

 『SSSS.GRIDMAN』(2018)は円谷プロ制作の特撮『電光超人グリッドマン』(1993-1994)のリメイクにあたるアニメーション作品であり、ストーリーは完全オリジナルでありながら原作の要素をいくつも継承している。そのうちの一つが「主人公たちの戦っている相手が、実は一人の人間である」というものだ。そしてその"敵"は、その心の弱みを得体の知れない"宇宙人"的な存在につけ込まれ、街の平和を脅かしている。

 『SSSS』において特筆すべきは、この物語がその敵となる新条アカネを救うことを予め約束しているところにある。

― 君を"退屈"から救いに来たんだ!

 というオープニング曲『UNION』の歌詞が流れるところで、映像は退屈そうに窓を眺める新条アカネと、そこへ颯爽と現れるグリッドマンの姿が描かれる。

 第6話においてその作品世界が新条アカネによって作られたものであることが明かされると、「新条アカネの欲望をいかにして救済するか?」という問題はその深度を増して立ち現れてくる。同じくOPの歌詞にある、

目を醒ませ

僕らの世界が何者かに侵略されてるぞ

という言葉は素直に読めばグリッドマン(主人公)側のものだが、その世界が新条アカネが作ったものである以上、これは新条アカネの視点として解釈することもできる。そして『SSSS』が、この「僕ら」に新条アカネが包摂されてゆく物語であるとするならば、主人公はむしろ新条アカネの方であるという主張もそれほど的外れなものではないだろう。実際、新条アカネ自身が「主役=ヒーロー論」についての異議を唱えるシーンも第6話で描かれている。

 さてこの「欲望する神」としての新条アカネが、現実のオタクから共感という形で欲望の視線を(性的なもの以外にも)向けられているということはにゃるら氏のブログでも書かれている通り。脚本の長谷川圭一はかつて「人は誰でも自分の力でウルトラマンティガになれるんだ」と平成のちびっ子たちに信じさせた黒幕の一人でもあるため、オタクからの期待のまなざしは大きい。私たちは『SSSS』を観て、欲望する新条アカネに救われて欲しいと願い、同時にそれは欲望する私たち自身の救済願望でもある

 当然のことながら、あらゆる物語は、その物語空間が人物を支配する構造から逃れることは難しい。そしてそれはおそらく、作者-神にとってはひどく退屈なものになるだろう。その退屈から救済されるためには、『ウテナ』と同じように物語空間のシステム自体をアポリアに陥れる必要があるのかもしれない。

  これを執筆している2018年12月15日時点において『SSSS』がまだ最終回を迎えていない以上、結末についてこれ以上論ずることはできないが、この作品はあまりに真正面からこの問題系に向かい合った結果として、作品の外側から向けられる欲望が露骨に表出していることは事実だ。

 また、この《「欲望するキャラクター」が救われて欲しいと願うオタクの欲望》という再帰的論理は、『ANEMONE』においても表出していた。ただしこちらは相当やっかいで複雑な位相を抱え込んでいる。

 

4/欲望の問題系の今日的射程②『ANEMONE』

 『ANEMONE/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』(2018)はその長いタイトルからも分かる通り、TVアニメ『交響詩篇エウレカセブン』(2004-2005)から続く一連のエウレカシリーズの最新作である。ここで単に「リメイクである」「続編である」などと言えないところにも既にこの作品の厄介さがある。『ハイエボリューション3部作』という企画はそもそも、既存のエウレカシリーズの素材を使いつつ、まったく新たな物語として再構成するというもので、『ANEMONE』はその二作目に当たるというわけだ*5

 TVシリーズでは主人公・レントンエウレカとのボーイミーツガールを主軸に、敵サイドのヒロイン・アネモネらとの闘いなどが描かれてきた。しかし『ANEMONE』はそれらの世界とはパラレルなものであり、舞台も2028年の日本に設定されている。キャラクターについても、そのタイトル通りアネモネが主人公として、さらにはエウレカが悪役として描かれている。アネモネ自身もオリジナルとは異なり、「石井・風花・アネモネ」というまったく新たなキャラクターとして、これまでのエウレカシリーズからは切断されている。彼女は幼少期に父親を失った空白を抱えながら、人類の生存を賭けて"エウレカ"と戦うことになる。

 そもそも『ANEMONE』では"エウレカ"は人の形をしておらず、地球上に突如出現した植物のような組織からなる"現象"そのものとして現れる。これはほとんど震災と言ってもいい。世界各地に出現した"エウレカ"は26億人を死に至らしめ、現在東京に出現したものを指して"7番目のエウレカエウレカセブン)"と呼称されている。

 ではなぜ"エウレカ"が人類の脅威になってしまったかと言えば(これが本作最大のネタバレになるが)、

これまでのエウレカシリーズが全て「レントンが死んでしまう世界線であり、レントンを生き返らせようと繰り返し試みたヒロイン・エウレカの夢だった」

エウレカに裏切られたあなたが『ANEMONE/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』を観ないという不幸 - シン・さめたパスタとぬるいコーラ

ためである。

 繰り返される絶望のなかで、闇落ち魔女化してしまった"エウレカ"は、レントンの再生を夢見続ける。そうして彼女が現実を拒み続けることで、世界はその「再生され続ける"エウレカ"の夢」に侵食されていたのである。

 アネモネ対"エウレカ"の闘いの中で、父を失ったアネモネの空白と、レントンを失った"エウレカ"の空白が重なってゆく。そこで"エウレカ"はアネモネの侵攻を止めるべく、まさに魔女のような甘い囁きをアネモネに投げかける。夢を見るのがそんなに悪いことか、失った父親を取り戻すこともできるんだぞ、と……。しかしアネモネはその誘惑を断ち切り――あろうことか、父を殺した張本人であるところの"エウレカ"を、救済しようと試みるのだ。

 そこに二人の決定的な違いがある。"エウレカ"はただ欲望し続けるだけの存在であり、『ANEMONE』の物語はひたすら彼女の欲望を否定し続ける。一方でアネモネは、自らの力で"現実"を取り戻そうとするのだ。夢に溺れず、父をねだらず、決して欲望に服従しない。そして"エウレカ"に対して、一緒に戦おうと手を差しのべる。同じ空白を抱えた二人はそこで初めて手を取り合い、アリス・イン・ワンダーランド的なスペクタクルの果てに、夢からの脱出を果たす*6

 レントンの再生という欲望を捨て、夢から覚めたエウレカの、憑き物が落ちたようなその表情にこそ、今ここで私たちの向き合うべき欲望の問題系に対する一つの応答を見出そう。それは、夢を見続けること/欲望し続けることは、きっと苦しいということ――おそらくは、現実と向かい合うことと同じくらいに。

 しかし、これはアニメである。アニメには私たちの大好きな、ご都合主義が存在するのだ。『ANEMONE』もまた、欲望を捨てたエウレカに対して、欲望を捨てたことで初めて見える世界の美しさを教える。もう一つの別の世界で、確かにレントンが生きているという可能性を示唆するラストが描かれるのだ。

 ここである言葉を思い返そう。オリジナルの『交響詩篇エウレカセブン』において、レントンの父が残したとされる言葉が幾度となくリフレインされる。この「ねだるな、勝ち取れ、さすれば与えられん」という論理が、ここへきて強烈にフラッシュ・バックされるのだ。

 

 

 ツイートの伏線が、ようやくここで回収された。

 欲望に堕すことは否定するが、現実のなかで勝ち取ろうと戦い続ける限り、肯定してくれる。それが『ANEMONE』で描かれた世界だった。

 それゆえ、作中の台詞にもあるように「終わるに値する世界なんて存在しない」のだ。

 ニルヴァーナはまだ遠い。

 ここまでの作品論から分かるように、私が〔少女庭国〕にも見て取ったこの問題系そのものはまったく新しいものなどではなく、既にいくつもの誠実な応答がなされてきた。それでは、〔少女庭国〕について今こうして盛大に勿体ぶって語るほどの意義とは?――と問いたくもなるだろう。

 しかし安心して欲しい。『ANEMONE』にも少し共通するが、欲望の問題系に対して〔少女庭国〕は「百合」という装置を駆動させることで大胆な応答を見せている。ここからようやく〔少女庭国〕に立ち返り、その途方を辿ってゆくことにしよう。

 

004/物語はいかにして充足しうるか?

  さて、001-002では、〔少女庭国〕が「人物が物語に服従する」というバトルロワイヤル系の構造を内包する一方で、皮肉にもそこで描かれる無数の少女たちは「消費される物語群の犠牲になった少女たち」であり、同時に「そうした物語自体を欲望することから卒業できない読者たち」でもあることを確認した。そしてこうした"少女たち"の断章が、文字通り繰り返し切断され続けるのが第二部「少女庭国補遺」であった。

 さて、ここである問題が浮上する。それは、「この際限のない物語は、いかにして結末を迎えるべきか?」というものだ。呈示された「卒業試験」をクリアしたと思われるケースは、作中においていくつも描かれている。しかし、それでもまた新たな少女が現れ、消費されることを繰り返すだけだった。消費の欲望を止めない限りは、この虚しい再生産は永遠に続く。つまりこの問題は、どうすればこの虚無的な消費の欲望を充足することができるのか?――ということでもある。

 事程左様に、特殊な様態をもつ〔少女庭国〕においては、小説の結末を描くことが必然的にそのまま問題系への応答になる。実際にはこの難題に対して、どういった結末が描かれているのだろうか。

 そうした読者の気負いをあっさりと受け流すかのように、最後の章「六二〔石田好子〕」において描かれるのは――二人の少女がただ言葉を交わすだけの、何気ない時間だった。

 結論を先取りしてしまうと、そこには「百合」の持っている、ある特殊な力が働いている。そして、その力によって問題系のアポリアからこの小説を解放している。必ずしも〔少女庭国〕における百合描写そのものが百合小説として傑出しているというわけではないが、この物語群の最後にあくまでも平凡な(それでいて実存的な)意味での「ふつうの百合」を描いたところにこそ、重要な意味を見出すことができる。「デスゲームを際限なくリセマラする」という虚無的欲望の果てで、そこで百合を描くことが小説の結末としてあまりにも完璧であり、同時にその百合性は感情の深度を増しているのだ。それは如何なる理由によるものだろうか。

 

1/六二〔石田好子〕の章

 「六二〔石田好子〕」の章ではその名前が象徴しているように、「石の部屋の女子(=好)」というあからさまに作者がとってつけたような名前の女子の視点で語られる。それまではほとんど無作為か語感でつけたような名前だったにも関わらず。

*

 最初に目を覚ました好子は、ドア一枚開けて隣室の女子・本田加奈子と出会う。互いに顔も名前も知らないことを不審に思った加奈子は好子の部屋へと押し入り、身体をまさぐり、強引に証明書の類いを確認するなど不躾なところがあるのだった。しかし好子は加奈子から少し距離を置きながらも、ぽつぽつと言葉を交わす。

 友達もおらず内向的な好子に対して、加奈子は髪を金髪に染めた、どこか粗雑な少女である。一見噛み合わないように思われる二人だが、話してみると加奈子にも存外アンニュイなところがあり、相性がよいことが分かる。加奈子もまた好子と同様、友達がいないのだと言う。

 ところが加奈子が突然煙草を取り出し火をつけると、煙草が大嫌いな好子は何も言わずに加奈子の部屋へと逃げ込んで、そのまま扉を閉めてしまう。

「煙草駄目だった」加奈子が訊いた。好子が返事出来ずにいると「怒らせちゃった?」と小さく続けた。扉が閉まって煙は来なかったが、こちらから向こうへも行けなくなってしまった。

 互いの部屋を交換した形になっていた。知らず好子は涙ぐんでいた。

「石田さん?」加奈子がいった。「私はそっちに行かないからさ、二人でここでだべってない? まだ移動したくないんだ私。石田さんはもう行っちゃう?」

  そうして二人は、部屋を交換した状態で、閉じた扉越しに語り合う。

 扉越し二人は話し続けた。他に何をするわけでもなく、ただ一緒にいて、とりとめなく時間を潰した。こちらに来てとだけ相手にいい出せず、そうでない話題だと幾らでも言葉に出来た。話すほど何かがちょうどいいと感じ、相手の声がどこまでも心地よかった。

 二人はただひたすらそうした時間を過ごし、単にお話としてはそれ以上のものが描かれることもなく終わってしまう。

*

 この結末の何がすごいんだと思われるかもしれない。なんでもない、それらしい雰囲気を纏っただけの百合じゃないか、と。

 しかし、ここで特筆すべきは唯一彼女たちだけが貼り紙について触れていない(読んでいないか、あるいは無視している)という点で、この「貼り紙="殺し合いをせよ"」という「物語のための舞台設定」から二人は逃れていると言える。それがあくまで錯覚であるかもしれないにしても。有り体に言えば彼女たちはこの物語を――"卒業"のシステムを必要としていないのである。

「今何時?」本田は携帯を持っていないらしかった。十時半だと好子が告げると始まってるね卒業式と彼女がいった。「ぶっちゃけあんまり出たくなくて私。石田さんは」

「別にどっちでも」

「出れなくて残念?」

「別に……」

 

2/芭蕉の百合性――観測者不在の百合

 ここであるテーゼを導入したい。

 いわゆる"百合"は、必ずしも"読者"を前提としない。……というのは言い過ぎであるとしても、"百合的関係"は必ずしも"観測者"を前提としない、それどころか視線をやんわりと拒むようなメンタリティをもつことがあるということは言ってもいいだろう。

 例えば芭蕉の句「古池や蛙飛びこむ水の音」、ここにも百合性のメンタリティは仄めかされるが、それは観測者の不在に由来する。

 この初句切れの「古池や」から連想されるのは閑散とした、物音一つ聞こえない空間だ。そこへ不意に蛙が池に飛び込み、その音だけがほんの少しの余韻を残して池のまわりに反響する。

 この句のすごいところは、「古池」のある空間に、観測者であるはずの人間=芭蕉は存在していないことになっているという点だ。その場に人の足音があってはならず、呼吸の音さえもない。人がそこに介入してしまえば、とたんに「古池」の持つ力場は失われてしまう。そしてまた「水の音」も重要で、音というのは波のように響き渡るものだが、その伝播は自然物以外の何物にも遮蔽されることはない。こうした情景描写のなかで、芭蕉は空(くう)である。

 観測者の不在によって初めて成立する事象を詠み上げたという、まさにその矛盾を句として成立させたことが、芭蕉のすごさなのだ。これは少しでも触れてしまえば変わってしまいそうな関係性を、その影響の力場の外からそっと覗き見たいという百合の一つのメンタリティと相似する*7

 「不在の百合」*8という概念があるが、これには「対象の不在」と「観測者の不在」との両面があるように思う。百合的な関係性をもつ対象が「今、そこ」におらずとも、それを喚起させるエモーショナルな風景はそれだけで百合として成立する。

 また、百合的な関係性を観測する視点がたとえそこで前提とされなくとも、まさにその関係性のなかにある二人にとってはそれだけで百合なのだ。「そこに百合がある」という言明を差し挟むまでもなく、既にそこにあるア・プリオリな百合――それが観測者不在の百合であると定義することができる。

 

3/〔物語〕を無効化する充足の論理

 彼女たちはこの物語を必要とせず、つかず離れず、25cm厚の石壁を背中合わせに語らい、ささやかな甘い関係に興じる。きっと彼女たちもまた助からず、この無限の少女たちが眠る石の空間にも出口はないのだが、唯一この小説を終わらせることができる手段があるとすればそれは「彼女たち自身が互いに補われ合うことで充足し、〔少女庭国〕という物語を必要としないこと」なのであり、彼女たちはそれを満たしたのだ

 ゆえに、この「六二〔石田好子〕」の章に、さらに先があると仮定するなら――つまり二人が必要としなかった、書かれなかった物語にこそ、観測者不在の百合があると言えるだろう。

  〔少女庭国〕は、掃き捨てるように少女たちを消費し続ける欲望の論理を、否定するわけでも、もちろん肯定するわけでもない。もはやここにおいて、問題の位相は大胆にずらされている。彼女たちはそんな問題には目もくれず、彼女たちだけで存在を満たし合っている。そこにもはや観測者の介入する余地はどこにもなくなってしまったのだ

 ゆえに、これはあなたの欲望に決して寄り添うことはない。だが、それは喜ぶべきことだ。私たちの思惑になど関わらず、少女たちは自らの庭――少女庭国において実存的関係を獲得したのだ。つまり私たちがこの本を閉じたとしても、あるいはそもそもこの本が誰にも読まれなかったとしても、彼女たちは確かにそこに存在している。

 よって最後の明らかに登場人物の口から出たとは思えないような台詞は、作者である矢部嵩からその充足へ向けられた、「そのままでいていいよ」という"卒業祝い"の言祝ぎなのかもしれない。

 

「このままでいようよ」優しい声がした。「私たちはもう補われたのだから」

 

 

 

SFマガジン 2019年 02 月号

SFマガジン 2019年 02 月号:百合特集

 
バトル・ロワイアル 上 幻冬舎文庫 た 18-1

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バトル・ロワイアル 下 幻冬舎文庫 た 18-2

バトル・ロワイアル 下 幻冬舎文庫 た 18-2

 

 

 

 

 

 

 

 

補遺

 

 小説のレビューを書こうとして、気付いたらアニメの話をしていた……(なんだこれ)。〔少女庭国〕の話だと思ってここへ来た人、すみません。でもそれらの脱線もそんなにずれた話だとは思っていないので、全体としては一つの大きな流れができたんじゃないでしょうか。そういうふうに読んでいただけていたら幸いです。

 あと百合界隈の人からも怒られそうな言い回し(百合という装置、とか)をしている部分がありますが、そこらへんも多目に見てください。べつにこれは百合を手段として捉えているわけではなくて、「百合」が結果的に問題系のアポリアから解き放ったという事態を指した、あくまでも比喩です。

*

 そしてこの文章を書いている私は卒論を書かず、「オタクの欲望と向かい合う」という欲望に服従している。私もまた〔物語〕を必要としている、満たされないひとつの存在に過ぎない。私はここから卒業できるのだろうか。

 でもまあこうして書いているうち思ったのは、「オタクの欲望は醜いが、悪いものではないなー」ということだ。たとえ自分に重ね合わせることができないものだとしても、誰かの純粋で強烈な欲望はたまに羨ましく思えることがある。書きながらそんなことを思い出していた。私には何もない。

 けれどあなたがこれを読んでいるという事実で私の孤独は救われないし、生活の呼吸困難は煙草の煙で悪化し続けている。部屋のはりつめるような寒さにだけ救いを見いだしてしまう。

 私は私の実存をもって、誰かを満たして、補いたいと思う。そうすることによって、私もまた。

 

 

 


*1:トップをねらえ2!』(2004-2006):「トップレス=子供時代に特有の万能感」に拘泥する/克服する若者たちを描いたスペースSFジュブナイル。前作は庵野秀明監督による『トップをねらえ!』(1988)で、まったくテイストは異なるが設定や時系列はそのまま接続している。

*2:中二病でも恋がしたい!』(2012):京都アニメーションによるラブコメで、元中二病の主人公と現役中二病ヒロインとのボーイミーツガール。「人は誰しも黒歴史=中二病を抱えている」というテーゼのもと、現実との折り合い方(「折り合いをつけない」という選択肢さえも)を示した。設定はかなり田中ロミオによる小説『AURA 〜魔竜院光牙最後の闘い〜』と近いが、『中二恋』は多数のキャラクターによってより複雑な人物のネットワーク(作中においては《連関天則》というキーワードで表現される)を描いているのが特徴。

*3:劇場版魔法少女まどか☆マギカ [新編]叛逆の物語』(2013):TVシリーズ本編のラストで神格化した鹿目まどかがすべての魔法少女を救済するシステム《円環の理》を構築したにも関わらず、『叛逆』では暁美ほむらがそのシステムを否定し悪魔化する姿が描かれた。

*4:たまこラブストーリー』(2014):日常系(空気系)の直球をゆくTVシリーズを切断し、永遠に続く日常などないことを《ラブストーリー》の導入によって示した。

*5:この辺りの事情については、エウレカに裏切られたあなたが『ANEMONE/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』を観ないという不幸 - シン・さめたパスタとぬるいコーラにとても良くまとまっているので、こちらも参照されたい。

*6:これは重要な余談だが、オリジナルの『交響詩篇エウレカセブン』においては二人が決して交わることのない立ち位置にいたことを思い返すと、この事実に衝撃を受けた観客も多いことだろう。そもそもオリジナルの世界では、アネモネエウレカの模造品として作られた存在であり、アネモネは"エウレカになりたかった少女"として描かれている。そんなアネモネエウレカの立ち位置を反転させ、二人が共に手を繋ぐようになるさまを描いた『ANEMONE』は、否応なしに「オタクの欲望」の柔らかいところを刺激してくれる。

*7:だから禅って百合なんだよな、と思う

*8:百合が俺を人間にしてくれた――宮澤伊織インタビュー|Hayakawa Books & Magazines(β)