プールの底から水面を見上げるように恋をする――『やがて君になる 佐伯沙弥香について』感想
入間人間『やがて君になる 佐伯沙弥香について』は仲谷鳰による漫画『やがて君になる』のスピンオフ小説。主要メンバーの一人である佐伯沙弥香にフォーカスした、原作の過去にあたる物語を描いています。
中学時代の佐伯沙弥香が自分自身の感情に振り回されて、初めて恋を知る過程が読めるだけで優勝。
原作『やがて君になる』を読んだ人は全員読みましょう。現在放送中のアニメを観ている人は、もしかしたらちょっとだけネタバレになるかもしれませんが……たぶん7話で少し触れられることになると思います。なったら読んでください。
ただしぶっちゃけこれは『Fate/Zero』ですよ。推しが死ぬ覚悟で読む必要がある。
とはいえ彼女が七海燈子にその後出会うという未来も確定しているわけで、単純にそれが救いとは言えないまでも、幸せなことだと思う。
「スピンオフなんて別に……」と思う人もいるかもしれない。けれどこの小説はただの「原作の副読本」にとどまらない、一篇の独立した小説としても読めるようなつくりになっている。それくらいの強度がある。
タイトルに含まれる《やがて君になる》は、これが『やがて君になる』のノベライズであるという含意以上に、この佐伯沙弥香の経験した恋に名前をつけるなら確かにそれ以外ないだろうと思えるものだった。
超ざっくりあらすじはこう。
まだ恋を知らない中学生の佐伯沙弥香が、先輩である柚木千枝に告白され、心をかき乱されながらも「好きになってゆく」という嘘をつく。二人は恋人として付き合うことになり、それから始まる秘密の逢瀬の中で、その嘘がやがて本当の感情になってゆく。
嘘をつき続け、先輩にとっての理想の恋人になろうとすることの息苦しさと、その嘘のうえに成り立つ幸福な時間とが裏腹に同居しているという佐伯沙弥香の葛藤が描かれる。
完全にこれって佐伯沙弥香にとっての『やがて君になる』じゃないですか?
卒業して会わなくなった先輩が佐伯沙弥香を秘密の中庭に呼び出すくだりで、不意にエモが極まって泣いてしまった。これはそこで不意に訪れる〈恋の終わり〉を予感してのものではなくて(たぶんそれもあるだろうけれど)、その予感にずっと蓋をし続けていた佐伯沙弥香の苦しみに共感した涙なのだろう。だから、実際それは「不意に」訪れたものではなかったわけだ。予感、予兆は随所にあった。
それに何より、大好きな先輩にそれまで過ごした時間のすべてが「遊びだった」と、尊い思い出のあれそれを色褪せたものとして上書きしてしまう言葉で終わらされてしまうことの、その一方的な暴力が、とにかく痛いのだ。
あまりにも無責任で、身勝手な、大好きだった先輩。好きにならなければ、告白なんてされなければ、そんな苦しみを知ることもなかったはずなのに。
しかし佐伯沙弥香にとって柚木千枝がいなければ七海燈子と出会うこともなかったというのが皮肉だ。しかもその七海燈子だって実際のところ、身勝手で無責任な人間なのだよな、というところも含めて。いや本当に業が深い。その身勝手さのほとんどはしかし、小糸侑に向けられることになるのだけれど……それはまた別の話(というか本編)。
ここで書いたような中学時代の経緯は原作の中で断片的に描かれており、単行本3巻では佐伯沙弥香が告白され、そして別れ、高校に入学して七海燈子に出会うまでが5pのダイジェストで描かれている。そこにももちろん感情のもつれは感じられるのだけれど、あくまでそれは高校生になった現在の佐伯沙弥香が回想する過去であって、やはり少し遠い距離感はぬぐえない。
そのエピソードを読んだときには「ああ、佐伯沙弥香にもこんな過去があったのか」と思っただけだったけれど、ノベライズで埋められたその感情の隙間は、確かにその時の佐伯沙弥香が感じていた、考えていた生の感情で、その重みはまったく違う。
この小説が過去の回想ではない、佐伯沙弥香の過ごしてきた「今」を丁寧に描き出してくれたことの幸福を思う。
佐伯沙弥香の経験した恋について知ってしまうと、彼女が小糸侑に対して向ける視線についてもいろいろ考えてしまって、それもまた楽しい。
また、ここまで一切触れていなかったけれど、実はこの小説にはさらに過去――小学5年生の佐伯沙弥香の姿が描かれている。当時の佐伯沙弥香は習い事に忙しく、毎週水曜日に通うスイミングスクールもその一つだった。そこで友達になった女の子から、彼女は「手のひらが熱くなる」ような感情を向けられることになる。
おそらくその女の子は、それが恋だということにも無自覚で、あふれるその感情をどうしたらいいのか分からない。その一方で佐伯沙弥香も、そうした感情に名前をつけることができず、それにどう応えればいいのかも分からない。
それまでどんな習い事も器用にこなしてきた佐伯沙弥香が、水泳でどれだけ努力をしても勝てない相手がいることを知り、たとえ追い抜いたとしてもさらにまた誰かの背中があるとするなら、「先頭にはひょっとすると、安心はないのかもしれなかった」と悟るなど、佐伯沙弥香の行く末を思わせるような細部も描かれていたりする。
この冒頭の章は卓抜して端正な文体で描かれていて、スイミングスクールの描写ではプールにそっと爪先を浸すときの冷たさが蘇るようだった。ひねり過ぎない素直な言葉で鋭い表現がたびたび現れ、そのたびにすっと耳の奥が冴えるような感覚になる。
何より、水中で二人が"息継ぎ"をするシーンの描写にはえも言われず、震えた。その光景のきらめきと、息苦しさと、キスをするよりももっと純粋な想いがあふれだすさま。あぁ……ここはもう読んでくれとしか言えない。
この文体で佐伯沙弥香の話をやるのは、あまりにも正解すぎる。
そういう意味でも、今こうして入間人間によって『やがて君になる 佐伯沙弥香について』という一篇の小説が書かれたということの巡り合わせが奇跡のようで、同時に必然のようでもある。
さて、小説を読み終えて、こんな感想を書きながら朝を迎えて、原作4巻を読み返している。小説を読んでいるあいだもずっとこの表情が頭から離れなかった。彼女のなかであの日々はどう変わってしまったのだろう。
「ごめんね沙弥香ちゃん」という言葉の暴力性に、柚木千枝は無自覚なままでいる。
それに報復するように、それを過去にするように、「さようなら」で断ち切ってしまえる佐伯沙弥香の強さが、私は好きだ。それがどんな嘘や閉じ込めた言葉に支えられたものだとしても。
プールの底に沈んで見上げる水面のように、恋は苦しい。
けれど佐伯沙弥香はその苦しみを、ためらわない。
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- 作者: 結川カズノ,缶乃,柊ゆたか,文尾文,ほか,仲谷鳰
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