『たのしい自殺のやりかた』
死にたくても死ねない。二階建てアパートの一階に住んでいて飛び降りには向かないし、首を吊るにも丁度良い梁がない。そんなふうに言い訳をする癖ばかりついて気付けば二十代も後半、ようやく俺一人では死ねそうにないと思い至った。人間、自殺をするにも知識と明確なビジョンが必要なのだ。
「その通り」
とボサノヴァ鯖サンドさんが言う。
「この飯田橋友の会は、一人で死ぬこともできない私たちが手を取り合い共に最期の時を迎えようという趣旨の集まりです。初めての方は不安かもしれませんが、安心してください。私は自殺オフ歴十数回を数えるベテランです」
初めてでなければなんだというのか。胡散臭いが、ボサノヴァさんはじつに親切である。本職のSEの道すがら自殺サイトの管理もしていて、歳はまだ三十そこそこに見える温和な風貌。きつい冗談を除けば印象はそう悪くない。
「それに、ここにいる皆さんはきっと同じ気持ちでいるはずです」
ボサノヴァさんの言葉で、俺は静かに顔を上げた。輪になって座る他の四人も同じように互いを値踏みし牽制するように視線を交わす。俺は向かいに座った高校生の少女とふと目が合うや慌てて下を向いた。長い黒髪、同じく黒いドレスにブーツ。それでいて驚くほど真っ白な肌に、アニメキャラというよりも人形のような生気のなさを感じた。ほとんど口を開かないからそういう風に見えるのかもしれない。
飯田橋駅前店のカラオケボックスには暫く沈黙が流れた。ボサノヴァさんが割って入るかと思った矢先、テーブルの上に大きなリュックがガシャンと叩きつけられた。
「で、結局どうやって死ぬのか、まだ決まってなかったよね」
アラサーOLのサヤカさんが、そのリュックを開いて中の瓶のようなものをいくつも取り出しテーブルの上に並べる。透明のボトルが転がるたびにパステルカラーの錠剤が踊った。
「睡眠薬。海外の強いやつ。他にも向精神薬とかいろいろ良くなる薬ありますよ」
「く、クスリは嫌ですよぉ、サヤカさん……」
ぽんぽんいたおさんが音を上げた。顔合わせからずっと何かに怯えた様子でアタッシュケースを抱えた、痩せ気味のスーツの男性だ。
「だ、だって怖いじゃないですか。海外の薬って違法……というか、危険なんじゃ」
いたおさんは誰とも目を合わせずに爪をミチミチと噛んでいる。
「えっと。いたおさんは死にたいんですよね」
「あれ、えっと、はい。そうです。たぶん」
「だったら危険だろうが何だろうが関係ないじゃないですか。死んだらおしまい。後の事なんて考える必要ないでしょう」
「ひぅ」
「まあまあ、サヤカさん落ち着いて。しかし言わせてもらうと、私もそうは思いません。どうせ死ぬなら、誰かの役に立って逝きたい」
ボサノヴァさんが立ち上がり言う。
「実は先月、妻子と別れました。きっともう二度と会うこともないでしょう。それでも私は彼女らを愛しています。報われなくても構わない。一方的な愛でもいい。ただ、何かを遺してやりたいのです」
俺はボサノヴァさんの悲哀に満ちた背中を見つめ、いたく感動した。その指には未だ指輪の跡が残っていた。
「具体的にはどうするの?」
「私は生命保険に加入しているので、事故死に見えれば妻子に保険金がおりるのです。車で崖から転落するとか、建物もろとも焼死とか」
「ミンチか焼肉」くくく、と少女が笑う。
「やめてよミミちゃん!」
mimimiというのが少女の名だ。名を呼ばれると綺麗な瞳がきゅるきゅると落ち着きなく動き、楽しそうに肩をゆする。
青い顔をしたのはサヤカさんだけではない。変な想像をして、俺も皆も気分が悪くなる。
「馬鹿馬鹿しい。そんなのはエゴだ」
今日ここまで無口の榊が耐えかねたように言い放った。
「本当に誰かの役に立ちたいのなら生きるべきだ。それなのに死のうとしてる時点で俺たちは逃げている。逃げることが悪いとは思わないが、こんな所にいる人間の命に価値なんてないだろう」
振り絞った声。溺れた人間が水面で必死に息を吸おうとするような必死さがあった。
けれどそんな空気の緊張をものともせず、mimimiさんはふわふわと笑う。
「そうだよ。命に価値なんてないの。ぼくは血が好き。お湯の中に切った腕を入れると、血が煙みたいにゆらゆら広がるの。それで赤く染まっていくの。それを見るのが好き。みんなも一緒にカッターでざくざく、しよ」
想像しただけで痛い。みんな血の気が引いていた。
このままでは埒があかない。
「あの!」
俺はmimimiさんの言葉を割って手を挙げた。
「普通に練炭とかじゃダメですか?」
ガシャーンと耳をつんざく音がした。見ると足元でいくつものグラスが割れていて、その側には店員の女の子が眼をひん剥いて立っている。大声を上げた俺は、部屋に人が入ってきたことに気付かなかったのだ。
「失礼しました」と何事もなかったかのように踵を返す店員、そして「待ちなさい晴美!」と叫びながらボサノヴァさんが飛び出した。扉から一歩出た彼女の背中にしがみつくように、ボサノヴァさんの腕がしかと伸びた。
「どうしてこんなところに晴美が」「てめーくそジジイ触るな」「ごめんよお」「練炭って何。あんたら何! またこいつに唆されて自殺オフか。こんなのに騙されてんじゃねえよ。こいつはな、うちらに馬鹿みたいな借金遺して逃げ回ってんだ。死ぬならちゃんと死んでくれっつーの。あんたら頼むわマジで」
きめーんだよ、という言葉を最後に、晴美と呼ばれた少女は悲壮な父親を蹴り飛ばし去って行った。
「これじゃあ死んでも報われない」
廊下に倒れたまま涙を流すボサノヴァさんの、その噛みしめるような言葉に胸が痛んだ。誰もがボサノヴァさんにかける言葉を見つけられず、威勢のよかった榊さえもポカンと口を開いていた。
そんななか、ただ一人いたおさんだけが立ち上がる。
「あなたにこそ、これを渡すべきかもしれない」
そう言いながら、ずっと腹に抱えていたアタッシュケースの留め具をパチンパチンと外していく。
「会社から横領してまいりました」
「こ、こんなに!」一瞬心をときめかせてしまうボサノヴァさんだが、その思いを振り払うようにすぐさまケースから目を背けた。
「しかし……そんな汚い金は受け取れません」
一時は起き上がる気力を取り戻したかと思ったが、ボサノヴァさんは再びがっくりと上体を倒してしまった。
「もうダメだ。これから死のうって時にこんなに気分が暗くなるなんて」
「よ、よし。楽しいことを考えましょう。美味いものでも食べて」
「回らん寿司でも頬張りますか」
サヤカさんといたおさんがボサノヴァさんを励ましにかかる。
「あ、でもそんな贅沢する余裕あんの?」
「心配ご無用。金ならあります」いたおさんがケースをどんと掲げた。
「それよかいい薬があるよ!」
流れのままに俺たちはじゃぶじゃぶとカラフルな顆粒を飲み込んでいく。瞬間、狭いカラオケボックスに光の海がなだれ込んできた。溺れないようにバタバタ泳ぐと四角い壁は縦横無尽に回転しながらどんどん遠ざかり、しまいに部屋は宇宙そのものへと相成った。内臓や血管が裏返り飛び出しているが他のみんなも同じなので不思議と恥ずかしい気持ちはなく、裏返った内臓を互いに擦り合わせると無限の快楽が生まれた。神秘だ。
天地創造も斯く様なり!
「元気があれば何でもできる!」
ボサノヴァさんの叫び声が蝸牛神経にこだまし遠ざかる。裏返った内臓がずるんと何かに引っ張られ、ふと気がつくと俺はカラオケボックスの外の通りに踊り出ていた。
通りを走る車の音、街行く人の雑踏が徐々に捉えられるようになる。遠くからパトカーの音も聞こえた。
「う、ははははは」
目の前で榊が心底楽しそうに笑っていた。どうやら他の皆は置いてきたらしい。
「わはははは」俺も楽しくなってきた。「みんな頭おかしい」
「俺、なんでこんなとこに来たんだろう」
榊は早稲田通りの明滅の雑居から目を逸らし、腕で目の前を覆った。眩しそうに目を細めて、くたびれたような笑い声は尻切れになる。
「君はなんだか寂しそうな笑い方をするんだな」
俺がそう言うと、榊はため息のように小さく、そうかもしれない、と呟いた。
あれから二度と彼らと会うこともなかったが、自殺のニュースを見かけるたびに思い出す。みんな今でも生きているのだろうか、誰の本当の名前も知らないから確かめようもない。いつの間にかボサノヴァさんの自殺サイトも閉鎖されていた。アパートの万年床には黴が生え、だらだらと日がなテレビを垂れ流して期限切れの牛乳を飲んでいると、あの日あったことが薬の見せた幻だったような気もしてくる。平日の気怠い午前、開け放した部屋の窓から鳩が糞をした。坂木という男が死んだと、テレビは言った。